Xen0gl0ssia

退学浪人の闇を切り裂いた元高専生のブログですが技術系の文とかとかそういうのはないです。

ハローワールド・ボーイ・アンド・ガール Part1

グロック銃口を倒れてる男の頭に押し付けようとして、やめた。自動拳銃オートマチックは押し付けると不発になるし、なにより僕にとって近づくことはリスクでしかないからだ。白点と白線を男の頭部に向けて一直線になるようにようく狙って、僕は引き金を引いた。ばん。

乾いた音と薬莢が転がる金属音がして、弾はアスファルトをうがった。

「クソッたれ」

ばん、ばん、ばん。何度も鉛を無駄遣いして、ようやく男のこめかみに穴が空いた。僕は一息つくと、やたらにちらばった薬莢を拾い集めた。

この男はシアトル・アンダーグラウンドの研究所から逃げ出してきた実験体。お上カデシュ曰く、サイバネティクスの被検体。エメスやエトロフあたりから流出したデッドコピーを身体に埋め込まれて発狂した成れの果てらしい。脱走した研究所で3人、道中で5人をその強化された反射神経と腕力で殺した。ニューヨークまで逃げてきたコイツをなんとか秘密裏に始末することが、僕の仕事。

あいにくと僕は腕っぷしが強くない。というか弱い。その辺のガキにも負ける自信がある。代わりと言ってはなんだけど、僕は頭がキレる。それもクラッキングの方向で。だからこの仕事が僕に回ってくるのも当然だった。

ようするにこういうことだ――体内にハイ・テクノロジー由来のインプラントを埋め込んで居るからには、無線通信の軛からは逃れられない。整備や制御に必須の技術だからだ。僕はデッキ*1を弄って、街中の電波という電波を調べ上げた。公衆無線の中に紛れる識別信号。予めデータを受け取っていた僕がそれを見つけるのにはそう時間は掛からなかった。

そして……ポン!サイバーサイコのインプラントは僕のアタックで即席の爆竹になった。いくら培養したイルカの筋肉と、ライトファイバーで置換した神経系を持っていようと、目に見えない攻撃は避けようがない。男は動くための機能をほとんど奪われて路地裏に倒れた。インプラント皮膚装甲ダーマルプレート系の技術は無かった。だから銃が通用する。僕はきっちりとどめを刺した。それがさっき。

心拍数を示すデータがフラットラインを示してから、僕はようやくソイツに近寄って、脚でつついた。動かない。よし。後は管理部に連絡して、この死体を運んでもらえば僕のカデシュでの初仕事は無事に終わる。

仕事用のタフなスマートフォンを取り出して連絡を入れる。十分も経たないうちに、カデシュの掃除屋が此処にやってきてここにあった死体の痕跡はすべて消え失せるだろう。アスファルトの弾痕は、ちょっとどうしようもない。僕は仕事の終わったグロックを雑にカバンに放り込む。

 

「こりゃぁ、随分と外しましたね」

数分後、眼鏡で短髪で、人殺し稼業よりはオフィス勤めが似合いそうな男が死体を検めた。その所作は冷静で的確だった。どことなく、樽漬けヴァット・ジョブ*2された特有の人間の所作だったが、僕は言及しないでおいた。確実に息の根が止まっていることを確認したあと、部下のエージェント・スミスめいた男が死体をボディバッグに詰め込んでいた。

「悪いね。これまで一発で当たった試しがない」

「それで殺し屋を?」

短髪男が訝し気に聞いた。当然の反応だろう。

「チームだった。僕は頭脳担当。銃を撃つ、殴る、切る。それは他の奴の仕事だった。――もちろん、僕は殺してないなんてナメたことを言う気はないよ」

それに、と言って僕は鞄からコンピュータを取り出した。10インチタブレットよりはすこし小さいくらいのサイズ感だけど、厚みは電話帳みたいなコンピュータ、これが僕の相棒の“デッキ”だ。

そして僕はARO*3を背面のプロジェクタから出力した。投影された幾何学的な物体はぐるぐると何かを読み込むような動きをした後、今回の事件のデータを出力した。

「これが僕の本職。その死体に入ってたデータ。抜き取っておいたよ。最も、君達には不必要かもしれないけれど」

なるほど、と男は言って、投影されたデータに目を通した。

「こちらのデータは」男が言うのを遮って僕は続けた。

「もちろん、そっちに渡す準備は出来てるよ」

「では、今すぐにでも」

僕はデッキを開いてキーボードを叩いた。左目に付けたAROコンタクトレンズがモニタとなって、デッキの一連の動作がGUIで表示される。カデシュが利用している専用の暗号化メッセージアプリを通して、データの送信は無事に完了した。

彼は自身のスマートフォンを確認すると、僕に5枚のコインと指輪を差し出した。僕はそれを受け取ると、指輪の内側を覗く。26000という数字が刻まれていることを確認して、それを右の人差し指に嵌めた。コインはポケットにぞんざいに仕舞った。誰もこれが1枚1万ドル程の価値のあるものだとは思うまい。

男が言った。

「それでは、これで晴れて貴方も我々の一員です。ようこそ、ホテル・カデシュ・ニューヨークへ、ミスタ・ベルウッド。」

男は微笑んだ。完璧にコントロールされた、仕事人としての笑み。高級ホテルの名ホテリエのような顔を浮かべながら。

実際にそれは当たらずとも遠からず、だ。ホテル・カデシュ。ニューヨークに本店を構える、老舗高級ホテルと暗殺組織の二つの顔を持つ巨大組織。彼はそこから送り込まれた管理官だ。

「よろしく、ミスタ・ジョンソン」

僕も同じように返した。握手はしなかった。握手は武装解除の意味がある――なんて話があるけど、あれは現代じゃ通用しない。最先端エッジのプロは握手をしない。

「ところで」彼は切り出した。

「その格好は趣味で?それとも実用的な意味が?」

その恰好という意味は僕にはすぐ分かった。長いブロンド、150くらいの身長、女の格好。というのに登録した情報では男。どういう扱いをするべきか決めかねている様子だ。

人殺しをあっせんしているというのに、妙なところで気を遣うな、と僕は笑いをかみ殺した。僕ははっきりと言った。

「趣味だよ。僕は男だ。でも、似合うだろ?」

 

この後はどうするのかと聞かれたので、適当に探した部屋にでも帰ると答えて別れた。

しばらくは大通りを道なりに歩くだけだ。駅まで行ったら地下鉄に乗り、乗り換えを挟めば今日の宿がある。懐も暖かくなったことだし、肩慣らしにはちょうどいい仕事だったもんだから、僕はわりかし上等な機嫌だった。

チチチ、と嫌な感覚。ハッカーがこちらを見ているときのソレに近い、電子的にスキャニングされている時の感覚。僕は直感的に路地の先、通りの反対の方を見た。

不思議な女が居た。黒髪のショートカットが夜の街灯を受けて、蒼色に煌めく。小柄な割にその雰囲気は餌を与えられていない犬みたいな女だ。そんな女がこちらを見ていた。僕は鞄に手を突っ込んでグロックのグリップを探した。見られたことよりも、女の言い知れぬ得体のなさが、僕を突き動かした。剃刀のような女だった。

つい癖で奥歯を舌でなぞる。ようやく右手がグロックのグリップを捉えた。引き抜こうとしながら、鞄から顔を上げる。

女の姿は消えていた。



不気味な女ではあったけれど、それから何があると言うわけでもなかった。僕は居心地の悪さを感じて、出来るだけ人通りの多い道を、出来るだけ複雑なルートを選んで、結局アパートメントには帰らなかった。安宿を探してその一室を新たに取った。待ち構えられていたら、ということを考えるとそう易々と帰るわけにはいかない。

古くて汚くはないが綺麗とも言い難い一室のベッドに腰を掛けて、僕はタバコの封を切った。紙巻の先をライターで炙りながら息を吸って、そしてすぐに吐いた。

それから、タバコを吸いつつ僕は今日の仕事のデータを纏めてから、例の女について調べた。調べる方法は簡単だ。カデシュのデータベースを漁る。幸いにも先ほどの仕事で認められたからか、サーバ自体へのアクセスは許可されていた。仕事の早い短髪男に感謝しながら、ニューヨークで活動する殺し屋の情報を絞り込む。が、該当するものはなかった。

こういう時は無理せずさっさと諦めるに限る。僕は買ってきたラップサンドとバドワイザーを胃に流し込んでから、ベッドに沈んだ。

 

がしゃん、という物音で僕は目が覚めた。ドアノブに引っかけていた灰皿が落ちる音。元から完全な安全なんて確保できるわけがないと思っていたから、仕掛けていたトラップに助けられた。靴も履いたまま寝ていたぼくは、そのまま物音を立てないように起き上がると窓をそろりと開けた。ここは地上二階。どんくさい僕が飛び降りたらまず間違いなく脚を挫くし、最悪頭から落ちて落下死だろう。とはいえ、僕に刺客とやりあうという選択肢はない。なぜかって?僕はそんな筋肉マンマッチョじゃないからだ。

。僕は鞄の中から小さいホッケーパックのようなものを取り出した。それを窓から落とす。ぽふん、という音がして、地面にエアバックが開いた。

意を決して窓から飛び降りる。と同時にドアの壊れる音がした。

「ぐぇ」

自分でも情けなく思う声と共に、エアバックの上に落ちる。なんとか打ち身程度で済んだ。エアバックはすぐにしぼんで用を成さなくなった。すぐさま逃走に移行する。

窓から覗く顔と目が合った。例の剃刀女ジレット*4。暗闇の中でぼんやりと光る目は、僕と同じAROコンタクトだろう。

銃でも撃たれたら最悪だ。人間は銃弾を避けられるように出来ていない。僕は祈りながら走り出した。

幸いなことは女が銃を撃たなかったこと。悪いことは、その女が躊躇なく二階から身を躍らせたことだ。軽い音が背後に聞こえる。

「ファック」

思わずFワードを口から漏らしながら。後ろをちらちらと確認しながら走る。と同時に、ヘアアクセサリ型のDNIが僕の思考を読み取って、それをデッキに伝える。捜索コマンド。相手がARO技術を利用しているなら、そこが突破口になるかもしれない。デッキのエージェントソフトにクラッキングを任せて僕は路地をめちゃくちゃに走った。

僕は運動神経が悪いけれど、走ることだけはそれなりに出来た。とはいえ、それは一般人基準での話。裏社会の基準では下の中くらい。つまるところそれは、追いつかれるのは時間の問題だということだ。

どん、と爆発するような音が聞こえる。女が踏み込んだのだろう。僕はというと既に走り続けてヘロヘロで、とてもじゃないけど逃げられるような状態じゃない。捜索コマンドの進捗は7割。女のサイバネを焼くのはまだ無理だ。

走りながらグロックを弄って引き抜く。振り返って撃とうとして、眼前に女。

「ッ!」

引き金を引く。と同時にその銃口が振り払われた。銃弾が明後日を向いて火を噴いた。次の瞬間、女の拳が僕の腹にめり込んだ。吹き飛んで路地に転がる。グロックはどこかに転がっていく。さっき食べたラップサンドとバドワイザーに感動の再開をしそうになるのを耐えながら、立ち上がろうとする。そんな僕の脚を女は捕まえると、ぐい、と投げ飛ばした。背中から壁に激突する。肺から酸素が逃げていく。

「ひ、どいことするじゃないか。何が目的だい」

女は僕の言葉を無視した。ゆっくりと歩いて近寄ってくる。ようやくそこで姿がはっきりとした。センサ類を詰め込んだであろうヘッドセット。全身はタイツめいたサイバー・スーツ。走査線が全身を走り、女の一投足を検知し、強化しているのだろう。

そのまま僕の胸倉を掴んで引きずり上げる。視界の端の捜索コマンドの進捗、81%。

僕は覚悟を決めた。奥歯に仕込んだハッチを舌で跳ね上げて、中のドラッグを吸引する。ばちりと脳髄に響く感覚。

僕は女の腕を掴み返した。反抗とも言えないほどに弱々しい手つき。女は抵抗になんの感慨もなく、そのまま腕を振りかぶって、僕を殴りつけようとする。

「遅いよ」

僕は言った。女が少しだけ眦を動かした。

次の瞬間、僕は転じた。彼女のサイバー・スーツの中のマトリクスへ。



マトリクス、サイバー・スペース、メタバース、電脳。そんな風に名付けられた疑似的な空間に僕はいた。ハッカーと呼ばれる人種が口にする造られた異空間は、ハッカー自身の脳髄を通し翻訳コンパイルされ、認知される。その空間にはハッカー自身の個性が現れる事もあるが、多くの場合海中に似たような空間の形を取る。

僕のマトリクスはまさしく海中だった。実のところ僕はリアルな海にそこまで執着はないのだが、とにかく海中だった。上も下も分からないのに、光だけは浅瀬のようにいつまでも輝き続ける海。

本来、ハッカーはマトリクスを感じたところで、そこにフルダイブするような輩は少ない。

市井の機器はアニメやゲームのように発展していない。エメスやエトロフ、その他後ろ暗い先進技術を使っているような輩でないと、この空間を感じられても「没入」することはできない。ハックにマーシャル・アーツ的な神秘を感じて、LSDでもキメながら一心不乱にモニタに向かうようなハッカー・カルトの連中なら別かもしれないが、それも数少ない例外と言っていい。

その数少ない、「後ろ暗い先進技術ブラック・テクノロジー」を持っているのが、まぁ僕なワケだが。特殊な薬剤を用いて脳幹に接続された機器をKICKして、物理的に接触しているあらゆる電子機器のマトリクスにアクセス出来る。「電脳の予言者サイバー・マンサー」と僕の脳味噌を弄り回した野郎どもが言っていた、僕の切り札だ。

 

あまり見たくはない空間の中で、僕は一つ伸びをした。こうしている内に現実世界の僕はボコボコに殴られている可能性もあるが、ミリセカンドの世界で大慌てしたところでどうしようもない。現実には5秒くらいしか効力のないこの能力だが、この空間内での体感時間は3000秒を超える。だったら伸びの一つでもして気分を入れ替えた方が効率が良い。

やたらと煌めく海中の中に、巨大な建造物があった。正方形を積み上げたローポリの雪だるまのような白亜の建物だ。おそらくアレが、あの女のサイバー・スーツのセキュリティを司る”イメージ”だろう。

短く息を吐いて、僕は腕を指揮者めいて振った。空間が歪み、形を生み出し、やがてデフォルメの効いたサメのようになった。全長は2mばかしで、あまり大きいとは言えないが、それが三匹。

「やれ」

僕が短く言うと、3匹のサメが三位一体となってバレルロールを描き、雪だるま目掛けて飛んで行った。そしてその顎を開き、外壁に接触。数瞬の拮抗の後、噛み砕く。サメ達は飢えてようやく在りついた人肉に集るように、その外壁を貪り始める。

この空間では”イメージ”がモノを言う。本来必須なハズの厳密な数式めいたプログラムは、脳髄を通した再翻訳デコンパイルの速度には追いつけない。僕にとっての”攻撃”のイメージはどうやらサメが適任のようで、この空間に入るたび毎回世話になっている。

外壁を食い荒らし、人が余裕で通れる程度の穴が空く。僕はそっちに向かって泳ぎ、内部へ進入した。外壁、つまりセキュリティを突破したサメ達が、僕の後ろへ続いた。

予想された反撃は一切なかった。僕は訝しんだ。外から攻撃されるより、中にあるものをひたすらに閉じ込めて、一歩たりとも外へと逃がしたくないような、そんな欲望を感じる。この空間に入り込むよりも、出ることの方がよっぽど難しいだろう。だから僕は、そんな意志で記述されたプログラムを念入りに破壊していった。面倒になるより前に破壊しつくせば問題は起きない。

道中で回収したプログラムデータを分析、マッピングしながら、研究所めいた廊下を模した空間を抜け、最奥にたどり着く。衛生的を通り越して生理的嫌悪を感じさせる白一面の部屋の中央には、不似合いな牢があった。

その中には女。例の襲撃者とおなじ容姿をしていたが、サイバースーツではないし、ヘッドセットも、輝くAROオブジェクトもない。素っ気ない下着だけの女は目を閉じ、動かない。いや、動けないのだ。四肢という四肢に枷を嵌められ、その鎖の先は錘か、牢に直接繋げられている。

あとはひとつ、この牢と女を食い破れとサメ達に命令すれば僕の勝ちが見えてくる。現実世界のサイバースーツを破壊できれば、詰みの状況から若干不利な五分くらいに持っていける。あるいは、スーツに直結されている女のニューロン。そこをずたずたにしてやれば、女はもう二度と思考することも立ち上がることも出来なくなるだろう。

僕は手を振り上げて、それから振り下ろそうとして――そこで、女が目を開いた。AROコンタクトのない、生身の目だった。だが、それは光を写さない死者の目だった。自分の運命をどうしようもないと諦めきっている目。

僕は腕を振り下ろした。サメ共が飛び掛かる。




現実世界に帰還した僕を迎えたのは落下感、次に迎えてくれたのはコンクリートだった。

「ぅ、ぐえ、ぁ……クソッたれが」

英国紳士らしく毒づきながら鼻から垂れた血を拭う。眼下には座り込んだ例の女。全身を覆うサイバー・スーツの走査線、ヘッドセットの点灯、AROコンタクトの光は消えている。僕がクラックしたからだ。自分を守るものをすべて剥ぎ取られた女は、呆然としていた。僕はその女を尻目に、さっき振り払われたグロックを拾った。吐き気がする。きっと内臓にもダメージが入っているのだろう。サイバー・マンサーの後はいつもこうだ。そもそも生身で電子的に接続などという事象自体がふざけているのだ。そのふざけた事象を発生させる為の代償は強烈で、だからあまり使いたくはない。

女がこっちを見た。電脳で見た時と同じ、なにも写していないような目をしていた。自分の命運を悟ったのか、あるいは――その想像を振り払って、僕はグロックをプレス・チェック。滅茶苦茶な撃ち方をした割に、40年以上の信頼を得てきたその銃はしっかりと次の弾を薬室に送り込んでいた。

銃口を女に向ける。トリガーに指を掛ける。女はなんの反応もしない。引き金を絞る。反応なし。引きしろがなくなって、ハンマーが落ちる寸前、その瞬間ですら、女は反応しなかった。

僕は指を離した。そして、グロックをバッグに放り込んだ。女の表情が動いた。わずかな変化だが、それは驚きに見えた。

「行きなよ、僕の気が変わらないうちに」

女はよろよろと立ち上がると、壁を支えに向こう側に歩いて行った。僕は彼女の背中を見続けていた。

 

とにかくくたびれていた僕だが、諸々の痕跡を残したまま去ることはできない。落ちた薬莢を拾い、重い体を引きずって安宿に戻り、酔っぱらって窓から落ちたと説明し、そして修理費として法外なチップを払うことになった。ドアに関してはモメたが、安宿故かこういったトラブルには慣れていたのが幸いした。その代わり、ここで夜を明かすことは出来なくなった。

むかむかする胃を抱えながら――ああ、これがアルコールによるものだったらどれだけマシだったか!――メトロかバスで上手いコトアパートメントに帰れないか検索して、両方とも長い時間待つ事になることを知った僕は、イエローキャブで帰ることに決めた。これも出費だ。しかも経費で落ちない。

黒人や移民のために作られた無機質なアパートメントの一室が僕の住まいだ。殺し屋というと贅沢な暮らしを思い浮かべるかもしれないが、あいにくとそれはゴッドファーザーの見すぎだ。セキュリティは最小限、周りの住人もとてもニューヨーカーには見えないが、それでも僕はこういった暮らしの方が性に合う。そもそも先立つものが大してないのに、そんな暮らしをする気にはならない。

とにかくやるべきことは明日やろう。血やその他諸々で汚れた服を適当にそのあたりに脱ぎ散らかして、僕は堅いマットレスに沈んだ。

 

翌日、太陽が高くなったころに目が覚めた僕は、ベッドに入ったままスマートフォンを確認する。ニュース欄は最近就任した大統領に関する話題と、怪我から復帰した日本人野球選手の活躍で持ち切りだった。昨日の事件は二つとも話題になっていないようだった。カデシュの情報統制に感心と、ひとまず大事になってない安心を覚えて、スマートフォンの画面を切る。水でも飲もうとして、切らしていたことを思い出した。仕方ないので近くのセブンイレブンまで買い出しに行こうと適当に身支度を整えて、ドアを開けた。

昨日の女が、ドアの隣で蹲って座っていた。黒とも蒼とも取れるショートカット。アジア系にも見えるが、確信は持てない不思議な雰囲気。人間のサラダボウルなニューヨークにあってなお目立つ全身タイツのような恰好。空いたドアに注意が向いたのか、ばっちりと僕と目があった。

一旦ドアを閉じた。がちゃり、と鍵をかけなおして、昨日そのまま放り投げたバックからグロックを掴みだして、再度ドアを開けた。女はまだ同じようにそこに居た。そりゃ、十数秒でわざわざ動かないよな、なんて間の抜けた考えが頭をよぎった。

ただ、女はわざわざこっちをつけてきたようではなかった。その証拠に、こっちに大してなんのアクションも取らない。グロックを握っている自分がバカらしくなって、思わず声をかけた。

「今から僕は買い出しに行く。その恰好じゃ目立ちすぎるから、僕の部屋で待っててくれないか?」

 

セブンイレブンで買ってきた全粒粉のハムサンドとPB&Jサンド*5、それからボルヴィックを2本。机の上に置く。

「昨日から何か食べた?」女は首を横に振る。

「じゃ、どっちがいい?」女は選ばない。

「じゃ、僕はこっちで」ハムサンドを選んでボルヴィックを投げ渡し、椅子に座る。女はベッドに座らせた。自分の分の水を開ける。半日ぶりの水分が喉を潤す。女の様子を伺う。手を付ける様子はない。代わりにこっちの様子をじっと伺っている。居心地が悪い、と一瞬思って、気づいた。

「ん」

飲みかけのボルヴィックを差し出す。女は手を伸ばしてそれを受け取ると、ちびり、と飲み始めた。

スラム出身ならよくある話ではあった。善意の誰かからの差し入れに、殺鼠剤やらガラスの破片やら、そんなモノが入れられていて、一口食べればのたうち回ることになる。”善意”というのは、スラムのガキやホームレスに向けられたモノではない。その土地を”浄化”しようとする”善意”だ。

おそらく、目の前の女も同類なのだろう。そうと分かれば話は早かった。ハムサンドを半分にちぎって渡す。もう半分は自分で食べる。女は差し出されたそれを受け取ると、まだ警戒の空気を出しながらも、僕が食べたのを見て一口づつ食べだした。

普段のさっさと詰め込む食事よりも3倍程度の時間を掛けて食べ終えた。ゴミを捨ててから、再び女と相対する。グロックは一応、手元にあるけれど、とてもじゃないけど使う気にはならない。

「で、なんで僕の家に来たのさ。もっかいやろうってンなら、お断りだけど」

女は首を横に振った。どういうつもりだ?

「失敗したから帰るところがない、なんてヤツ?」

今度は縦に首を振る。相変わらず喋ろうとしないけれど、これには納得。

「もしかしてだけど、喋れないのかい?」

これに関しては、首をどちらにも振らなかった。喋れないのか、あるいは喋らないのか。とまれ、彼女から聞き出すことは非効率だな、と結論付けた。僕はインターネットの魔神じゃない。

「これから昨日奪った君のデータを全部確認する。見られたくないモノもあるかもしれない。けどまぁ君は敗者だから、受け入れてくれ」

そう言って僕は机に向かう。現行型のモニタが3枚据え置かれた空間は、一応僕の本拠地でもある。デッキからデータを送信し、データ解析エージェント・ソフトに掛ける。その間も、女に動きはない。ただじっと、何かを言われるまで人形めいてそこに居た。

プログレスバーが完了を示して、ウィンドウが出る。まずは女のプロファイルを確認しようとして、そこで手が止まる。

名称:被検体20号、それ以外の情報は身長と体重くらいなモノだ。つまりこの女には、名前が番号しかない。

手を動かし直す。ミッションレコードを確認。カデシュ会員を一人殺して、その番号を奪ってくるというシンプルなものだった。僕を狙うのは道理だろう。いかにも弱そうだし、あの現場を見ていたとしたら、腕前も大したことが無いのも知れる。

はぁ、とため息をついた。親玉から殺してこいと言われたはいいものの、それに失敗。僕が昨日サイバー・スーツを再起動できないようにプログラムをぐちゃぐちゃにしておいたせいで、帰る道もろくに分からず、ただターゲットだったヤツの家の場所だけは朧げに覚えていたから、ここにたどり着いた、そんなところだろう。

どこから情報が漏れたかは気になった、が、カデシュ経由ではないだろう。わざわざ僕を会員として引き上げて、ぶっ殺させて会員番号を奪わせるなんてまどろっこしいことをする必要性はあまり思い浮かばない。となれば、親玉あたりには元NSAか、GCHQか、いくつかのAPTグループには攻撃を仕掛けた事もあったし、意趣返しか――。

そこまで意識を飛ばしかけて、ふと女の方を見る。相変わらず茫洋とした視線、捨て駒のように扱われていたことに怒りの感情はおろか、なにも感じていないような態度。いや、感じていないわけではないのかもしれない、ただ、それを発露させる方法を知らないのだろう。

腹が立つ、女の態度に僕は耐えかねた。立ち上がるとクローゼットから適当なスウェットとパーカーを女に放り投げた。女はきょとんとする。

「やり返しに行こう」

僕はニヤリと笑った。女はまだピンと来ていないようだった。

*1:ハッキング用コンピュータ。中でもクラッキングに特化した攻撃的な物を指す。

*2:神経・脳等にインプラントが施された人間のこと。培養槽で生まれたとされることから。元ネタはサイバーパンクTRPGシャドウラン

*3:Augumented Reallity Object 拡張現実物体、いわゆるホログラム

*4:サイバネティクスによって強化された女性のこと。剃刀の切れ味のように戦闘向けに調整していることの比喩したもの。男性の場合は剃刀男レイザー・ガイ

*5:ピーナッツバター&ジャムサンド