Xen0gl0ssia

退学浪人の闇を切り裂いた元高専生のブログですが技術系の文とかとかそういうのはないです。

魔特六課八咫烏 Incognito Files 姉泣谷の怪の巻

 

 本作品はVRChat創作グループ神祇省公安対魔特務六課 八咫烏」の二次創作作品です。

 

**************************************

 ひゅうぅ、と風が泣いた。少年はその音に一瞬身を竦めたが、その音が鳴りやまないことに気づくとまた歩き始めた。

 少年の表情は暗く、涙の跡がある。三月も近づいてきたとはいえ、まだ冬と感じられる時期であった。着の身着のまま飛び出してきたのか上着すらない恰好の少年を、風は容赦なく吹き抜けていく。

「寒い」

 ぽつり、と呟いた。手をポケットに突っ込んで、獣道を歩いて行く。市街にある家からここまで自転車で1時間、自転車では入れないような道になってから、さらに歩いて30分ほどが経過していた。周りは木々に覆われ、風の音に紛れてざぁざぁと水の流れる音がする。

 またしばらく歩いて、音の原因に行きついた。ちょうどそこは滝になっていて、左右から岩壁がせり出している。その間を吹き抜ける風が、まるで女が泣いているかのように響いていた。少年は石の上に座って、しばらくその小さな瀑布を眺めていた。

 帰ろうか、しかし――そんな考えがぐるぐると巡り、また歩を進めようと立ち上がろうとした、その時である。

 ずるり、と、足元の地面が滑る。あ、と言う間もなく、少年は谷底へと落下を始めた。落ちる先は渓流だ。冬の水の冷たさと、その厳しさは想像に難くない。落ちればいずれ、低体温症となって死ぬことは少年にすら予想できた。

 ぎゅっと目を瞑る。走馬灯が脳裏を駆けた。思い出すのは喧嘩別れになった姉の顔。親戚に拾われて、その人たちも悪い人たちではないけれど、気持ちの上では本当に最後の血のつながった家族。俺の為を思って、と言い出しでは、やることなすことすべてになにか口を出してくる、自分より成績も器量もいい姉の言葉に、嫌になって家を飛び出したこと。その言葉だって、確かに行き過ぎではあったかもしれないが、それでも確かに弟を思ってのことだったと。谷底に至る一瞬で、少年の心は後悔に支配された。

 

「危ない!」

 自然音ばかりの谷に、女の声が響いた。女は少年の背を追いかけて地面を蹴ると川へと飛び込み、そして少年の体は女の腕の中に収まった。水しぶきが跳ね、二人の体を濡らす。女は川底をしっかりと踏みしめて、自身と少年の体を支えた。

 少年は目を見開くばかりで、言葉もなかった。ただ、女の長いまつげと、優し気な垂れ下がった眦に見とれていた。深く刻まれて取れなくなったのであろう隈ですら、その柔らかな美しさを引き立てる絶妙なアクセントとしか感じなかった。

「大丈夫ですか?」

 女がそう問いかけると、少年はまず口をぱくぱくとさせて、その頬を赤くして、ようやく話し方を思い出したように声を絞り出した。

「は、い。あり、がとう」

「無事なら良かったです」

 女は笑った。少年は、この瞬間を忘れないようにしよう、と心に誓って、目を閉じた。



 見覚えのない天井が少年を出迎えた。オレンジ色の布が四方から伸びる柱状のものによってぴん、と張られている。少年はゆっくり起き上がると、自分が寝袋の中に寝かされていること、そして、さっきまで来ていた服とは違い、白く、大きめで、普段着ているモノとは仕立ての違うワイシャツに身を包んでいることに気づいた。

 テントの中だ、と見当を付けた少年は、外に出ようとしてドアパネルを探した。見つけたファスナーを開けると、外には骨組みで出来たような中型バイクが停車してあり、少し離れた位置でぱちぱちと焚火がなっている。

 そのそばには、先ほどの女が座って火の番をしていた。タイトなジーンズにこれまたタイトなシャツは、その女性的な曲線を強調している。その上から黒いジャケットを羽織ってそのラインを隠し、太腿にはいくつかのベルトが巻かれ、その上にコンテナやポーチが装着されていた。視線の先は手元の資料に注がれ、その視線が動くのと、風に巻かれるのに任せて長いポニーテールの黒髪が揺れていた。

 テントの動きに気づいた女が少年の方へ振り向く。

「あ、目は覚めましたか?あの後すぐ気絶しちゃったので、心配だったんですよ」

 無事でなによりです、と言いながら女は焚火の上で組んだ木の三角錐の上から何かを手に取ると、少年の居るテントへと向かった。

「服、濡れちゃってたので乾かしておきました。今の、私の服だと寒いと思いますから」

 言われて少年は気づいた。確かに上はシャツとインナーだったが、下は緩いジョガーパンツで、下着は履いていなかった。気づいて羞恥心で耳まで赤くなる少年を、女はなんとも思ってない様子で、乾かしておいた服を差し出した。少年は何も言えないまま、ひったくるように自分の服を掴むと、急いでテントへと引っ込んだ。

 

 少年が着替えと羞恥心を収めおわる間に、女は外で茶の準備をしていた。外に出てきた少年を焚火のそばの椅子に手招きして座らせると、金属製のカップに注いだコーヒーを渡した。

「お砂糖とミルクは……ごめんなさい。用意が無くて」

 少年はおずおずとカップを受け取り、ちろりと舐めた。熱くて、苦い。が、それを言い出すのも情けないと思ったのか、我慢して一口飲み下す。その様子を眺めていた女はくすりと笑う。少し気恥ずかしくなった少年は、自分から話を切り出した。

「助けてくれてありがとうございます。その、僕は翔舞って言います。ちょっと離れたところに住んで……ます」

「いえいえ、当然のことをしただけですよ。私は松岡邦子です。呼びにくいと思うので、コッコで結構ですよ」

 コッコと名乗った女はコーヒーを慣れ親しんだように飲むと、話を続けた。

「しばらく暇になっちゃったので、各地を巡って伝承や民話の研究をしているんです。ここにもその一環で着ていました。珍しく人の歩いてきた痕跡があるな、と思ったので追いかけてみたのですが……まさかちょうど滑落するところに遭遇するとは。ラッキーでした、はい」

「あ、その……危ないコトして、ごめんなさい」

「いえいえ、困った時はお互い様です。でも、どうして?」

 コッコが聞くと翔舞は押し黙った。姉と喧嘩して、とは言いたくなかった。沈黙の気配を察して、コッコが先手を打つ。

「私はですね、さっきも言いましたが、此処にある伝承の調査をしに来たんです」

「……伝承?」

 翔舞が首を傾げる。そんな風に何かがある、という話はとんと聞いた事がなかった。翔舞の中で伝承と言えば、ドラゴンが出てくるようなファンタジーの世界か、あるいは大往生した妖怪漫画家の世界の話でしかなかった。

 コッコは翔舞が興味があると見るや否や、矢継ぎ早に言葉を続けた。

「はい!ここの地名の由来に関する伝承なんです!市立図書館で読ませて頂いた本にあったお話で、弟をこの谷で失った姉が来る日も来る日もここで泣き続け、しまいにはいつまでもその泣き声が響き渡るようになった――というお話があるんです!」

 コッコは楽しそうに本のコピーと地図を指で指し示しながら話を続けた。その勢いに気圧されそうになりながらも彼女の話を聞いた。

「――で、フィールドワークの結果、この谷のこの滝、この両端が山から吹き下ろしてくる風と相まってビル風のような強風となり、それが泣き声のように聞こえているのではないかと……ってあ、話し過ぎちゃいましたね」

 誤魔化すようにふにゃりと笑いながら広げた地図を仕舞う。話の内容こそ気圧されたものの、何かに熱中している様は翔舞にとってはまぶしく思えた。

「翔舞くんのお話も、聴かせてもらって良いですか?」

 コッコにそう問われて、翔舞はやはりすこし黙った。黒い液面を見つめて、やがて意を決したかのように顔を上げた。

「おね……姉と喧嘩したんです」

「喧嘩、ですか」

 コッコが返して、翔舞は頷いた。

「姉ちゃん、今年で中学2年生なんです。俺達、両親が大厄災で亡くなってて。親戚に引き取られて、それで生活してるんだけど、俺の親代わりになろうとしてるのか口うるさく言ってきて」

「それは……」

「分かってるんです。大事にしてもらってることは。でも、毎日宿題やっただの。門限がどうのだの言われると、やっぱ嫌になっちゃって。それでここまで来ちゃって……」

 翔舞は俯いた。子供っぽいところを話さなくてはいけない恥ずかしさと、そんな子供っぽいことをしている自分を客観的に見ることになったせいで、真っ直ぐ前を向けないでいた。

 暖かい感触が、翔舞の手を包んだ。びっくりして顔を上げると、翔舞の手を包むコッコが居た。

「分かります、なんて言えません。でも、翔舞くんがお姉さんの事を心底嫌っているワケじゃないことはわかります」

しっかりと、翔舞の目を見つめて、コッコは言葉を続ける。

「たぶん、お姉さんもから回ってるんだと思います。大丈夫、お姉さんも翔舞くんのことを思っての事なのは、間違いないですから。それでも、それを素直に受け入れられないことも、またよくあることなんです」

 だから、コッコは翔舞の手をしっかりと握った。

「ちゃんと謝りましょう。それで、お互いに納得出来るところを探りましょう。大丈夫、私に相談できるなら、お姉さんにも相談できるでしょう?」

 ね?と言い足しながらコッコは翔舞に告げ、その顔を至近距離で見ることになった翔舞は顔を真っ赤にした。

「もしそれでも悩むことがあったら、私にお話しにきてください。しばらくはこのあたりに居ると思うので」

 真っ赤になる翔舞に構わず、コッコは微笑みかけた。翔舞はこくこくと頷くばかりだった。




 買い出しのリストを確認する。カップ麺と生鮮食品、缶詰。洗剤や、山籠もりになりがちなことを考えると薪なんかも必要になる。いくつかの日用品や食料品が並ぶリストの最下部には、村田銃用の30番実包と書かれていた。どうせ手に入らないだろう、と諦めながらも、コッコはリストからそれは消さないでいた。

 愛車のPS250に跨る。背負ったリュックと増設したラックもなんのその、バイクはエンジンを唸らせて加速し始めた。

 辛うじて舗装された道路から生活道路へ、そして駅に近づくにつれて周りの生い茂った木々は減っていき、その代わり人の流れが増えてきていた。T県H市は関東圏であり、T県自体は東京と隣接はしているものの、大動脈となる路線から少し離れればまるきり地方かのような様相を呈している。H市もそんな市の一つであった。

 駅から少し離れた駐輪場でバイクを止め、駅前の商店街に歩を進める。もう少し駅に近いところに行けばそれなりに大きなスーパーがあるが、コッコはこういった商店街を巡るのが好きだった。人の生きてきた歴史が小さくもうずたかく積まれているのを感じることができた。昔ながらの営業を続ける精肉店洋品店、写真館に、その土地の名産を扱う専門店。町おこしをしようとする若者達によるバーやパティスリーと言った店が道に連なり、その合間に存在する寺社や信仰を垣間見るのが好きなのだ。

 以前由来を調べたところ、旅人の安全を祈願するため江戸時代に設置されたというお地蔵様に手を合わせて歩きながら、今日の予定を考える。まずは洗剤類を買いに雑貨店へ。それから使っているナイフの手入れをしてくれしてくれる店に行き、その後カフェ併設のキャンプ用品店で薪を手に入れつつ昼食。昼には図書館に向かい、そしてそのあとは――そんな風に計画を立てて商店街を歩く。

 このH市にやって来てはや一月程度。年明けからH市のはずれの姉泣谷付近でキャンプし続けている女がいるらしいというのは知られていた。そして、その女がなぜかこの地域に興味を持ち、図書館や商店街に足を運び、交流を続けているうちに――コッコは商店街の人に顔が通じるようになっていた。

 雑貨店に出向けばおしゃべりな老婆と一緒にお茶を飲みつつ雑談に興じ、刃物店に向かえば寡黙な職人が預けたナイフを手入れする姿を怒られない程度の距離から見学する。この商店街の中では若手のキャンプ用品店の店長さんに体調を心配されつつも、薪の代金を払っていつもの場所に届けてもらうようにお願いする。そのまま店長さんの奥さんが切り盛りするカフェで昼食を取り、午後からは図書館へ向かう。H市の市立図書館の郷土資料室は大きくはないものの、周辺地域や県下の歴史や伝承などが数多く残っている。それらを読み、時にノートを取り、時に司書に許可を貰って印刷する。これらは以前も行っていた彼女の”仕事”でもある。

 そうして閉館の時間になると、コッコは図書館から出た。時間は17時を少し回ったばかりで、まだ冬の名残の残る外気温であった。袖をすり合わせながら駐輪場に向かい、愛車に跨り、拠点へと戻る。

 街灯も少なくなって、拠点までもうすぐ、といった頃合いで、コッコは周りの異変に気が付いた。足跡。それも、山へ山菜を取りに来る老人たちのものではない。もしかして、翔舞が来たのだろうか?だが、今日は来るという話を聞いていないはずだ。ここ最近は二日に一回のペースで遊びに来ていた翔舞だったが、彼は昨日もここに来ている。

コッコの胸の内は警戒心一色となった。バイクをいったん道に停め、耳を澄ませた。ひゅおぅ、ひゅおう、と女の泣くような風切り音がなり続ける中で、じぃっと身を潜める。

 

「んもう、空振りかぁ」

緊張感のない声が風にまぎれて聞こえてきた。どうやら自分より年下の女であり、敵意から来ているようではない、とも感じとれたコッコは、潜むのをやめて表に出た。声の主を確認する。黒色の地味なセーラー服の上にはこれまた地味な色合いのコートを羽織っている。校則なのか肩の上で切りそろえられたボーイッシュな髪型と、すらりとした体系のおかげで快活に見える少女の姿を認めて、コッコは彼女に声を掛けた。

「あの、誰かお探しですか?」

「わひゃぇあ!?」

「ひゃぁ!?」

少女は驚き飛び上がった。そんなに激しく反応されるとも思ってなかったコッコもまた驚き、飛び上がった。その後、両者見つめあう時間が過ぎて、どちらからともなく頭を下げた。




「急に声を掛けてしまってすみません。私、松岡邦子と申します」

 コッコはローテーブルにコーヒーを置いた。砂糖とコーヒーミルクも用意してある。

「ど、どうも」

 おっかなびっくりと言った様子で少女はカップを持ち上げて、なめるよう一口飲む。その苦さに辟易としたのか、容赦なく砂糖とミルクをぶち込んだ。

「す、すいませんいきなり来たのに、驚いちゃって、こうしてコーヒーも頂いて……私、翔舞の姉です。石井湊と言います」

「あぁ、やっぱり……。そっくりでした。コーヒーの飲み方が」

 言われて湊は気恥ずかしそうに頬を掻いた。

「それで、あの、翔舞くんのお話ですよね」

「はい。ご迷惑をおかけしてないかと……」

「いえいえ全然!先週知り合ったばかりでしたけど、よく遊びに来てくれて嬉しいんですよ。この間はこの辺で山菜や沢蟹なんかを一緒に獲ってくれたり」

 湊は首を傾げた。山菜はまだわかる、が、沢蟹というのはピンと来なかったからだ。それを察したのか、コッコは補足した。

「沢蟹、油で素揚げして食べるとおいしいんですよ」

「食べる」

「はい。冬は活動こそ少ないですが、水辺の近くで冬眠しているので探せば結構見つかるんです。冬のもののほうが味も良くて食あたりもないと言われているんです。こういう伝承は各地にあって――と、これは蛇足ですね」

 きょとんとする湊に対して、コッコは説明を続けそうになるのを切り上げた。ともかく、と言ってコッコは話を変えた。

「迷惑だなんてことはありません。むしろ新鮮で楽しいです」

「そう、ですか」

 湊はすこし安心したように肩の力を抜いた。

「聞いていた通りのお姉さんですね、翔舞くんのことを一番に考えている」

「聞いていた、ですか」

「えぇ、しっかり者のお姉さんだと聞いていました」

「しっかり者、本当にそう思ってるならいいですけれど」

 湊は自嘲気味に言って、コッコをじいっと正面から見据えてから、頭を下げた。

「翔舞をかまってくれて、ありがとうございます。……あの後、翔舞が謝りに来ました。それで、ちゃんとルールを決めようって。その約束はちゃんと守るよ、って。急に言い出すものだから、先生とでも相談したのかって聞いたら、あなたの名前が出てきたので、お礼に」

「そんな、大したことじゃないですよ。少しお話しただけです。ちゃんと謝れたのは翔舞くんと湊さんの仲があってのコトですから」

 どちらからともなく、二人は笑いあった。




 買い出しのリストを確認する。今回は普段の買い物ではなかった。”お茶会”のための買い出しだ。コーヒーはいつものインスタントではなく、苦みの控えめなブレンドを、お茶請けには街のパティスリーでイチオシされたチーズケーキ。それから、砂糖とミルク。翔舞と湊の二人を迎え入れるための準備だった。

 二人が一緒に自分の拠点に来る、という事で、コッコの足取りは軽かった。二人の関係がどうなったのか、詳しくはわからない。だが、喧嘩しなくなったのであればそれで良いし、もしまだ険悪だと言うのであれば、それはそれで二人の間を取り持ついい機会だとも考えていた。

 あとは拠点に戻って、二人が来てもいい様に準備をするだけだ。そう思いながら、愛車のPS250へと足を進める。

 

「失礼、お嬢さん。少しばかりお話させて頂きたいんですがね」

 コッコの背に声が掛けられた。振り向くとそこにはコート姿の男が一人。ただしその所作はサラリーマンのそれではない。同族、の匂いをコッコは嗅ぎつけていた。表情には出さず、応対する。

「はい、なんでしょう」

「あぁいえ、最近この辺にテロリストが潜伏している、って話がありましてね。物騒だからこうしてお声かけさせて頂いてるんですよ」

 と言いながら男はこういう者です、と手帳を差し出した。和田と名前が書かれたそれが偽物であるか、コッコには判断出来ない。が、本能は本物であると告げている。一刻も早くその場から離れたい衝動に駆られるが、ぐっと堪えて応対する。

「それは……物騒ですね。気を付けませんと」

「えぇ、だからね、我々としてもこうして見回っているわけでして」

 男はそこで言葉を区切った。傍目には一般人にしか見えないコッコを相手に、最大限の警戒を持ちながら、次の言葉を続けた。

「出来たらご同行願えませんか、公安対魔特務六課、八咫烏の松岡邦子さん」

「……やはり、そうなりますよね」

 最初から分かりきっていたことではあった。本来は怪異と人々を守る存在でありながら、突如としてテロリスト認定された公安対魔特務六課。コッコもその隊員の一人であった。あの日、突如として本部と通信が途絶し、その後津守課長からの「逃げ延びろ」という命令に従った隊員の一人。

 後方要因でありながら、たまたま前線での霊力分析のために一人別行動となったコッコは、他の人員とは違い、一人だけで逃げる選択をした。

 きっと和田を睨み返しながら、コッコは毅然と返そうとした、その時、破裂音。

 亜音速の.32ACP弾がコッコを襲う。拳銃弾とはいえ、ただの人間であるコッコには回避はもちろん、狼狽える間も無い。弾丸はただ、爆轟に依って与えられた運動エネルギーを消費しながら、真っ直ぐコッコを穿つ、かに見えた。

 着弾する直前、一瞬だけ空間が歪む。そして弾頭はそこで静止すると、からりと音を立てて地面へと転がった。ありえない現象に、コッコを撃った射手が驚愕する。和田は聞こえてきた破裂音に驚き、身をすくめている。

 瞬間、コッコは荷物を投げ捨て、バイク目掛けて駆け出した。訓練と今までの経験が彼女の脚を動かした。

 今の不可思議な現象は彼女自身で術式を構築した矢避けの護符によるものだ。山梨に広く伝わるヤマノカミは、1月下旬に弓入りを行い、そしてその日に立ち入った人間はヤマノカミに射られて命を落とすという。それを避けるために捧げられていた供物を図式化し、霊力を流し込むことで飛来するものに対しての耐性を得る。

 本来は矢を射る怪異や幻獣等のブレスから防護するために用いられるものだったが、幸いにも銃弾相手にもその効力は発揮された。試作の一枚しかない特別製のその護符は、確かに役目を発揮した。

 コッコの死角からシグザウエル P230を構えた警官が数名、姿を現す。射撃が阻まれたというまさかの現象に狼狽しつつも、次こそはと各々狙いを定める。

コッコはコンシールドしていた45口径を右手で抜いて牽制射を放とうとし、その指が留まる。敵意をもってこちらに銃口を向けてくる人と相対するのはこれが初めての経験だった。

 逡巡。

「やめろ!」

 和田が叫び、警官達は動揺からか射撃を止める。その隙にコッコは射撃を中断。バイクへと飛び乗り、エンジンスタート。アクセルを全開にし、無段階変速機がその入力を繋ぐ。砂埃を立てながら急発進。

 警官達は再び狙いを付ける。だが、バイクはすでに数十メートル先へと走り去っていた。この状況では一般人へ危害を加える可能性があると判断。射撃を中止する。

「何勝手してやがるクソッたれ、どういう了見だ。こっちはまだ”交渉”をしていたんだ、それを台無しにしやがって」

 和田は怒り心頭であった。警官達に向かって怒鳴りつける。

「警察は人殺しじゃねぇ。それをわかってんのかお前ら」

「しかし、生死は問わないと、警視庁から」

「だからもへちまもあるか、だいたいあの女は人間だって話だろうが」

 クソが、悪態を突きながら和田は胸ポケットのソフトパッケージからハイライトを一本引き抜き、無造作に火を付ける。だが、怒りは収まるところを知らない。

桜田門のヘボ共の言うコトなんてマトモに聞くんじゃねぇ。ちったぁ頭を使え」

 紫煙を吐く。往来で堂々と喫煙する和田に対して、警官達は注意することもできなかった。

「あの女は殺さねぇ。聞きたい事もある……だいたい、桜田門がコソコソしてんのが気に入らねぇ。ウチのSATの連中はアイツらの言いなりで使えねぇし、何が起きているのか、知る必要があるからな」

 半分も吸わないうちに、和田はハイライトをもみ消して、携帯灰皿に突っ込んだ。



 今までにないほどアクセルを全開にして、コッコは野営地へと戻る。バイクを飛ばしている間、思考は恐怖に支配されていた。

 今までにも死にかけた事は何度もあった。この仕事を選んだ事を心底後悔するほどに訓練で歩かされ走らされたこともあれば、禍人の集団に対応するため最前線で銃器を振り回した事だってある。大火の中、迫りくる怪異と相対し、時間を稼いだことだって。だが、人と相対し敵意を向けられたのは初めてのことだった。

 なにより恐ろしいのは、自分が一瞬でも「人に向かって銃を撃つ」事を考えた事だった。

 血の気は引き、手は震え、膝から頽れそうになるのを必死にとどめながら、バイクから降りる。ここにはもう、居られない。半ばパニック状態でテントや荷物をひっくり返し、必要な物資をかき集める。

 だから、近づいてくる二人にも気づかなかった。

「コッコ姉ちゃん!」

 コッコの異様な様子を気にも止めず、翔舞が元気に挨拶する。びくり、コッコは肩を跳ね上げて固まった。

「聞いてくださいよコッコさん。翔舞ったらまた宿題忘れて、ちゃんとやらないと連れてかないぞって脅してようやく……って、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫、大丈夫ですから」

 誰が聞いても動揺を感じ取れるほど不安げな声で答えながら、コッコは翔舞と湊の二人に向き直った。汗が止まらず、心臓が脈打つのが早く感じる。

「ごめんなさい、急用が入っちゃって。私もう、ココを発たないと行けなくなってしまったんです」

「えーっ!」

 翔舞が大きな声を上げる。湊のほうも急なことに驚いているようだ。

「その、なにかあったんですか」

「えぇ、だから、今すぐにでも行かないと。ごめんなさい」

 コッコはそう言って何度も頭を下げた。

「だったら手伝いますよ。荷物も多いでしょうから、翔舞もね?」

「い、いぇ、大丈夫です。なんなら、邪魔になるものは……一旦置いていきますから」

 善意からの言葉だったが、今のコッコにはその善意は足枷になり得る。今この瞬間にも、和田やその部下たちがぞろりとやってくるかもしれないのだ。それに翔舞や湊を巻き込むというワケにはいかない。

「また会いに来ますから、今は急がないと」

 あまりの焦りぶりに湊も翔舞も不審に思い、二人で顔を見合わせた。そして、どちらからともなく頷く。

「わかった。絶対、戻って来てね」

「私からもお願いします。またコッコお姉さんのお料理、食べたいですから」

「ごめんなさい、ありがとうございます」

 コッコが頭を下げた。二人は頷いて、立ち去ろうとする。

 エンジン音が鳴り響いた。続いて赤色灯の瞬きと、スイープする音が耳に届く。まるで威嚇しているかのようなパトカーがコッコの拠点となっている野原に向かって駆け込んで来た。急ブレーキを踏み、コッコ達3人の前で停まる。その後ろから2台のパトカーが、今度はすこし距離を開けて止まった。

 翔舞と湊は呆然とした。ココにパトカーが駆け込んでくることなんて想像もしていなかったし、自分たちにそんな覚えもない。自然とコッコに視線が向かった。コッコは苦しそうな顔で、その視線から目を逸らした。

 急ブレーキのパトカーから、コート姿の男が降り、続いて他の警官もそれに倣った。コート姿の男――以外は、拳銃を抜いている。

「当然だが、ココも調べてある。ガキには見せたくなかったから、アソコで着いてきてくれると楽だったんだがね」

 和田はコッコをまっすぐ睨みつける。コッコはその迫力に思わずたじろいだ。

「姉ちゃん」

「お姉さん」

 説明を求める声も、コッコには届かない。ぎゅう、と手を握りしめるばかり。

「そこの坊主と嬢ちゃん、その姉ちゃんはな、テロの容疑で追われてる身なんだよ」

 低く、良く通る声で和田はきょうだいに告げる。

「だからこうして俺ら警察が追いかけてるんだ。わかるか、その姉ちゃんはな、捕まらなきゃいけないんだよ」

 一瞬、沈黙が訪れる。ひゅおう、ひゅおうと風ばかりが鳴り響いている。

「そ、んなこと。やだなぁ警察のヒトって、冗談がヘタで……」

 そう言って湊はコッコの方を向いた。嘘だと言って欲しかった。

「……私が、いえ、私達がテロリストとして追われていることは、事実です」

「……え、そんな。コッコお姉さん、冗談ですよね」

「冗談ではありません。ただし、私達は無実の罪を被せられて、こうして追われている身になっています」

「そういうワケだ。身の潔白なら、署で証明してくれや」

 均衡を破るように、和田が一歩踏みだす。

「イヤだ」

 翔舞が、はっきりと告げた。

「イヤだイヤだ!!コッコ姉ちゃんがそんなコトするワケないだろ!僕が溺れて死にそうなときも助けてくれた!その後も優しくしてくれた。姉ちゃんと仲直りするきっかけだってくれた!そんな人が、そんな人を傷つけるようなコトしない!」

 幼い感情を爆発させて、コッコをかばう様に和田達警察の前に立ちふさがった。はぁ、と和田が深いため息を吐く。

「気持ちはわかるよ坊主。だがな、そうは言っても俺達警察は言われたからには捕まえて、ちゃんと調べにゃならんってワケ。無実なら、それで――」

「嘘つけ!そんなコトあり得るもんか!コッコ姉ちゃんを連れて行くなんてさせない……!」

 ごう、と一際風が強く音を立てた。それは一瞬だけではなかった。みるみる合間に風は強く、刃物のような鋭利さを持ち始めた。ひゅおう、から、ひゅんへと、文字通りの風切り音へと。

「しょ、翔舞……!」

 異様さに初めに気づいたのは湊だった。風が切りつけるように鋭くなり、痛みを伴いだす。風は翔舞を中心に渦を巻き、さらに強まっていく。それはやがて、和田の方へと向かいだす。

ひゅん!

 音速を超えるような速度で風の刃が飛ぶ。その異様さに気づいていながら、超常の刃に和田は寸前まで気づけない。首元目掛けて襲い来るそれに、しかし和田は刑事の直感で、すんでの所で腕で守る。厚手のコートの袖がぱっくりと割れ、中のスーツも切り裂き、うっすらと皮膚には血がにじむ。

「ぐぉ……ッ!なんじゃ、こりゃ……!」

「コッコお姉さん!翔舞が!」

「……!」

 その一言と、目の前の現象にコッコは正気を取り戻す。そして、直観と経験が告げる。

 風妖。風の力を操る怪異。鎌鼬やシルフのような大気を自在に操作する怪異が、翔舞に取り憑いているのだ。

「……翔舞くん、だめ……!」

「コッコ姉ちゃんは渡さない。連れてかせるものか……!!」

「全員物陰に隠れろォ!!」

 和田が叫ぶと同時に、パトカーの裏へと転がりこんだ。警官も和田の警告を聞き入れたのか、パトカーやそのドアを遮蔽にする。

「翔舞くん!!やめて!!」

「翔舞!」

 コッコと湊に呼ばれるも、翔舞は止まらない。湊は翔舞を後ろから抱きしめ、止めようとするが、翔舞が腕を振るって生まれた風がその体を弾き飛ばす。吹き飛びそうになる体を、コッコが咄嗟に受け止める。

「ダメだよ、姉ちゃん。ちゃんとわからせなきゃ。手出ししないように……!」

 コッコの言葉も届かない。翔舞は怒りに身を任せて、風の刃を乱射した。

 エンジンやホイールを遮蔽に出来たものは幸運だった。が、薄いドアを遮蔽にしたものには不幸が待ち構えていた。機関銃の連射の如く叩きつけられた風刃はドアのスチールを削り、やがてそのドアを切り裂いた。余波で警官が切りつけられ、倒れる。

「……ほら、こうやって、さ」

 にぃ、と翔舞が口をゆがめた。ひゅおう、ひゅおう、と翔舞の周りに風が集う。それらは意思があるかのようにふるまい、翔舞に付き従う。

「もっと、もっと痛めつけたら、もうコッコ姉ちゃんに手出ししないよ。だから」

 ふわりと翔舞の体が浮き上がる。空中を滑るように移動し、遮蔽のない上から風を放とうとしていた。

「クソッたれがよ……」

 和田は悪態をつきながら、翔舞を見上げた。ホルスターに吊ってあったP230を抜き、それを向けるか逡巡する。子供に向けるようなものでは、断じてない。だが、あれは、怪異。和田のそれなりに長い警察生活の中でもそう言われる存在の噂は聞いていた。だがいざ自分が相対してみると心が揺らいだ。あれに勝てる人間など、そうはいないだろう。そしてそれは俺たちではないと、心のどこかで理解していた。

 翔舞が両手を振りかぶった。風の刃を放つ準備動作。撃つなら、もう今しかない。照星を少年に重ねる。引き金に指をかけ、あとは引くだけ――。

 その照星に、女の背中が重なった。

「バカ……ッ!」

 和田は咄嗟に引き金から指を離した。そして、風の刃が女ごと、切り裂かんとするのを覚悟して、起きない。

「……なんでさ、なんでコッコ姉ちゃんが邪魔するの」

 立ちふさがった女はコッコだった。動揺する翔舞を真正面から見つめながら、返す。

「翔舞君に、こんなことしてほしくないからです」

「なんで!このままだとコッコ姉ちゃんは」

「だとしても!翔舞くんが誰かを傷つけてまで守ってほしくありません!」

 それに、コッコは翔舞の背後を見て、続けて言った。

「貴女もそんな事を、翔舞君にさせる気ですか!」

 え、と声を漏らしながら、翔舞は背後へと振り返る。

 小袖を纏った透明な、それでいて実在感のある輪郭を伴った女性の姿。何者かが、翔舞の後ろに「憑いて」いる。

 翔舞に見られた事を契機に、風は力を増した。暴風となり、辺り一面の土砂を巻き上げる。

「うわぁ!」

 翔舞は驚き、それを止めようとしたが、風は止まない。石が礫となり、コッコや湊すらも襲いだす。

「ッ……!」

 コッコは咄嗟に上着の内に縫いつけられたホルスターに左手を突っ込むと、そこにあった呪符を取り出し、霊力を流し込む。瞬間、ほのかに発光したかと思うと、透明な立方体の箱が出来上がる。さっき使った矢除けの護符が使えればよいが、風に対しての発動は確認できていないし、何よりあれは一枚しかなかった。

 風と礫に弾き飛ばされそうになるのを何とかいなしながら、右手でナイフを抜く。ホルスターには45口径も収められていたが、この状況では翔舞に当たりかねない。風となった霊力の流れを読む。自然風と同じように、常に均一の力で吹いているわけではない。

 ここだ、コッコは箱の術を解くと翔舞へと駆けだした。上空およそ5mで浮かぶ翔舞と怪異に、コッコの跳躍力ではどう霊力で強化しようとも一足では届かない。細かい跳躍を刻み、そのたびに箱型術式を発動し、それを足場にしながら翔舞へと近づく。土煙がだんだんと薄くなってゆく。

 翔舞の姿が、背後の怪異の姿が、見える。

「コッコ姉ちゃん……」

「大丈夫、助けますから……!」

 翔舞の目にもコッコは傷ついていた。石を孕んで巻きあがった風はコッコの体のあちこちを傷付けている。コッコはナイフに霊力を込めた。元が戦闘要員ではないコッコの霊力の底は浅い。すでに複数回の術式発動によりガス欠寸前だったが、なんとか一太刀は怪異に届く。

 この一撃でとどめを刺す。 核を的確に刺し貫けば、霊力の塊であるところの怪異は霧散する。核はどこだ。コッコは己の直感に従い、翔舞の背後の怪異の心臓部目掛けてナイフを突き出した。

 感触が、ない。元より実体がないという次元の話ではなく、霊力としての感触すらほとんど伝わってこない。

――外した!?

 コッコの表情が驚愕に歪む。と同時に強風がコッコの体を強かに打ち付けた。足場としていた箱型術式から振り落とされ、落下する。翔舞の顔が見える。泣いている。必死にこちらに手を伸ばしている。だが、届かない。

 コッコの意識はそこで途切れた。

 

「……さん、コッコお姉さん!」

 揺さぶられてコッコは目を覚ました。眼前には涙を流す湊がいる。

「湊……さん、翔舞くんは……」

「わからない、あの後、あの風の化物に連れ去られて……」

起き上がりながら周囲の風景を確認する。周囲は荒れ、コッコのテントやPS250は無残に倒されている。無事な警官が手傷を負った警官に肩を貸しながら歩いているところが見えた。

「……行かないと……!」

「おっと、待ってくれよ八咫烏

 立ち上がろうとしたコッコの後頭部にニューナンブの銃口が押し当てられた。かちゃり、と撃鉄の起きる音。

「アンタのせいでウチの人員に被害が出てるんだ。はいそうですかって行かせるワケ、ないだろ」

 コッコの後ろには和田が立っていた。片手でニューナンブをコッコの後頭部に押し付けながら、言葉を続ける。

「怪異がなんだか知らんが、お前が逃げたせいでこうなった。お前のせいだ」

「……」

 コッコは何も言えなかった。自分が逃げたせいで今の事態を引き起こした。それは逃れようのない事実であった。

「そんな……翔舞は、どうするんですか」

「後でウチのナントカがやってくれるさ。今はこの女を確保するのが優先だよ、嬢ちゃん」

 湊の訴えもすげなくあしらわれる。反駁しようとする湊を、和田は視線だけで黙らせた。

「……それでも、私は、八咫烏の隊員です」

 コッコは立ち上がり、振り向いた。和田は一歩二歩と距離を取り、構えは解かない。

「お願いします。翔舞くんを取り戻すための時間をください。私の責任です。私の失敗は、私で拭わなくてはいけません。そのあとでなら、何をされてもいい」

 お願いします。その言葉と共に頭を下げた。和田はじぃっと、その姿を見て、構えを解いた。そして大きく舌打ち。

「わかったよクソ。俺だってガキが連れ去られていい気分なワケねぇからな」

「ありがとう、ございます……!」

「感謝される謂れはないね。誰が好き好んでこんな事」

 そう吐き捨てながら、和田は胸ポケットからハイライトを出して、火を付けようとする。

「ンでだ、策はあるのか。アンタのナイフ、アレに通じてなかっただろ」

「あります」

 コッコは即答した。和田は火を付ける手を止めて、コッコを見た。確固たる意思がその瞳にはあった。

 

 三月の風はやはり冷たい。その寒さは気温だけではないだろうなとぼんやり考えながら、和田は日が落ちて暗い森の中を走る。

 子供の頃はともかく、刑事になってからこんなに山歩きをしたことは数えるほどしかなかった。背負っているリュックには作戦の要となる物資がパンパンに詰め込まれている。腕時計で時間を確認する。時計は合わせた。予定の時間まではあと数分。それまでに和田は指定のポイントまでたどりつかなければならない。

 暗い夜道を警戒しながら足は止めずに、先ほどまでのコッコとのやり取りを思い出していた。

 

「湊さんは?」

「あの嬢ちゃんなら車で待たせてる、行かせるワケにもいかないだろ」

「そうですね。ありがとうございます」

 コッコは紙を広げた。この周辺の拡大地図だ。

「これは姉泣谷の周辺地図です。私はもともと、K.A.I.N.T.――八咫烏の中枢システムによる霊力情報を受けてこの土地にやって来ていました。目的は霊力の高まりによって怪異を生み出しつつある姉泣谷の調査。周辺に関する情報はK.A.I.N.T.には不足していたので、周辺の図書館や住民に聞き込みを行っていました」

 コッコは地図の一点を指差す。岩壁がせり出した谷となっており、姉泣谷がそう呼ばれる由来の一つでもあった。

「この場所。ここが長い年月を掛けて風化し、姉泣谷と呼ばれるに至る独特の風の音を生み出す原因となっています。その風化によって鳴り響くようになった音と、姉が弟を失くした悲しみという伝承が混ざり、怪異となりつつある。私の立てた推論は、この谷を破壊すれば怪異が生まれる前に抑えられる、というものでした。」

「待った。その根拠はあるのか」

「あります」

 コッコはタブレット端末を取り出すと和田に見せた。

「こちらは類似の案件……核が別の場所に存在し、主として活動する怪異が遠隔で動く、というタイプの怪異のデータです。総データ数は973件。そのうち核を破壊することで怪異を払えた案件は846件に上ります。約87%の確率ですね」

「そのデータの正確性は?」

「このデータはK.A.I.N.T.……我々八咫烏のメインシステムAIのデータベースに基づくものです。私的にバックアップしていたものを持ち出していました。正確性は保証します」

 なるほどな、と呟いて和田はタバコを咥えた。火を付けてから言葉を続ける。

「だがいまだに破壊できていないし、俺達には破壊する手段もない、そうだろ?」

「いいえ、あります」

 は、と和田は思わず呆けた声を出した。火を付けたばかりのタバコが口から落ちる。コッコは続ける。

「和田さんのおっしゃる通り、破壊する手段がネックでした。八咫烏という後ろ盾を失っていますから、気軽に爆発物を用意するわけには行かない。なんとかして用意する必要がありました」

「おいまさかアンタ」

「商店街の井上さん……洗剤とか、農業用の肥料なんかを扱っている雑貨店を営んでいるお喋りなおばあさんです。あの人と仲良くなって、いろいろと用立ててもらいました。やっぱり昔の人は凄いですね。いろんなコネクションと知恵がありますから」

 そう言ってコッコは笑った。和田はひきつった笑みを浮かべながらタバコを拾った。

「アンタ、テロリストになれるよ、本当に」

 

 所定の場所に着いた和田はリュックを一度おろすと、中身を確認した。コッコ手製のアンホ爆薬。肥料などから簡単に生成でき、かつ安全性も高い。起爆に難がある点を、ガスボンベを流用したブースターで解決した手製の爆弾だ。コッコがまだ八咫烏に入る前、炭焼き小屋の老人が片手間にダイナマイト漁をするために作っていたものを教わったらしいと聞いた。

 とんでもない女だなと思いながら、時計を確認する。予定時刻は過ぎた。コッコは今頃おとりとして交戦を始めているはずだ。十分な距離、怪異を谷から引きはがすことができれば、合図がなる手筈となっている。短い間、ひゅおう、ひゅおうという音だけが鳴り響く。

 

 ぱんぱんぱん、と3回の破裂音。予めコッコと決めておいた合図の号砲だ。あらかじめコッコが怪異の気を引く囮となり、その間にこのアンホ爆弾を仕掛ける手はずとなっている。

 上手くやれよ、八咫烏。和田は内心で呟きながら、リュックを担ぎあげた。




 風が強く打ち付けられ、木々を揺らし、その表面を刃物のように切り付ける。風妖を相手にコッコは着かず離れずの距離を保ちながら囮としての役割を果たしていた。翔舞に意識はない。気絶しているだけなら良いが、怪異によってその霊力を利用されているのならば時間はあまりない。逸る気持ちを押さえつけながら、コッコは暗闇の中、木々の間を走り抜け怪異を誘引する。周辺を昼夜を問わず調査していたおかげで夜の森の中であっても戦闘を行う事が出来る程度には土地勘もあった。

 森の大木を遮蔽としながら、息を吐く。背負った村田銃がかちゃりと金具の音を立てた。焦れた怪異がひゅうぅ、とうなりのような音を立てた。意識のない翔舞の体が苦悶に歪む。霊力を引き出しているのが分かる。すぐさまにでも駆け寄り解放させたい気持ちを耐える。

――ごめんなさい、翔舞くん。もう少しだけ耐えてください……!

 心の中で懺悔しながら、コッコは45口径を引き抜き、空中に向けて3連射。十分にひきつけることは出来た。後は和田の仕事に掛かっている。

姉泣谷の怪異、この風妖の核は谷の音を放っている岩壁。それが術式となり、怪異の要となっている。風妖に核がなかったことで、コッコはそれを確信していた。

 あとは爆弾をセットして、起爆までの数分を稼げば勝機はある。45口径の残弾をチェックしてから、再び囮として再び飛び出す機会を伺う。

 ふと、風が止んだ。木々に叩きつけられる風は止み、静けさが辺りを支配する。不審に思ったコッコは、遮蔽から少しだけ覗いて状況を確認しようとした。

 次の瞬間、再び風が吹き始めた。ただし、それはコッコに叩きつけられる風ではなかった。コッコは己の目を疑った。風妖が両手を掲げ、霊力を圧縮している。それは圧縮により熱を帯び、巻き上げられた葉はその圧縮熱によって発火している。翔舞は怪異の加減か、燃えるような事はない。しかしコッコにとっては、今それが自身に投射されようとしている事実こそが最も重大であった。

 反射的に遮蔽から飛び出す。と同時に風妖は圧縮された空気球を放った。数瞬前までコッコが居た場所に着弾すると、圧縮された空気と熱を解放した。

 箱型術式を遮蔽にしようと左手で呪符を引き抜き、最大限の霊力を込めて発動。ほのかに輝く立方体がコッコと着弾点の間に生成される。が、それを突き破り、コッコの体は爆風に煽られた。体は浮き上がり、続いて地面に叩きつけられ転がり、木にぶつかってようやく止まった。枯草に火が燃え移り、辺りを明るく照らす。

 かひゅ、と細い息を吐きながら、背負っていた村田銃で体を支えてなんとかコッコは立ち上がった。手にしていた45口径は落としたのか、もうここにはない。霊力は先ほどの箱型術式でほぼ底を着いた。発動出来てあと1回。それもこの攻撃を防げるほどの出力は望むべくもない。防火素材のアウターは着衣火災からコッコを守っていたが、それも二度はないだろう。

 有効な手段だと風妖も気づいたのだろう。再度の発動のため両腕を上げ、圧縮を始める。

「……ここまで、でしょうか」

 立ち上がりこそしたものの、心の灯はもう吹き消されていた。足はもう動かない。恐怖と諦観が彼女を支配する。苦しんでいる翔舞の顔が、自分を責めているように思えた。

 所詮後方要因の自分がここまでの大立ち回りをすることなど、土台無理だったのだ。戦闘要員の隊員たちには及ぶべくもない。彼らだったら、もっとスムーズに怪異を倒せていた。それも、アレコレ手段を考える必要もなく、一刀の元に切り伏せていただろう。

 ごめんなさい。そう呟いて膝を折ろうとしたとき、爆音が森に轟いた。風妖のそれではない。森の奥から聞こえてくるその音は、和田に託した爆弾の音だった。

 コッコははっとした。正面に立ちはだかる怪異を再び見た。小袖姿の怪異は自分の心臓を抉り取られたかのように悶え、暴れ狂う。圧縮を中断し、苦しみを周囲に発散するかのように風を叩きつける。

――そうか、和田さん、やったんだ。コッコは胸中でそう呟く。凄い人です、とも思った。怪異と相対し、動ける人間はそうは居ない。翔舞のために、市民のために、彼は役目を全うした。

 報いなければならない、彼の行いに。そして、翔舞くんとその無事を待っている湊さんのために。コッコの心に、再び明かりが灯る。

 核となる谷の術式を破壊されても、風妖は姿を消しはしなかった。切り離されてなお、翔舞の霊力を汲み上げて周囲に暴風を巻き散らす。その胸には新たな核が生まれ始めていた。

 だが、その揺らいでいる刹那、今なら翔舞を風妖から引きはがすことができる。

「あああぁぁっっ!!」

 コッコは裂帛の叫びと共に走り出した。今まで出した事のない程の雄叫びで自らを奮い立たせた。暴風に対し、愚直なまでに真っ直ぐ突き進む。残った霊力をかき集めて、箱型術式を展開、と同時に跳躍し、その上に飛び乗る。そして再びの跳躍。今度こそ、翔舞の手に届く。そのまま翔舞の体をしっかりと抱き留めると、風妖の支配から翔舞を引きはがした。

 落下する。受け身などまともに取れるわけもなく、ただ翔舞を傷付けまいと無理矢理に転がって勢いを殺す。やがて止まると、翔舞の姿を確認した。脈は確かにある。

「翔舞くん!」

 懇願するように、コッコは翔舞に叫んだ。翔舞の眉がびくりと動き、薄く目を開けた。

「コッコ……ねぇ……ちゃん」

「大丈夫、助けに、来ました」

「……うん、ありが、とう……」

 それだけ言って、翔舞は再び意識を失った。コッコは翔舞の体を優しく地面に寝かせると、再び風妖と相対した。背負いなおしていた村田銃を手元に引き寄せ、構える。

 風妖は新たな核を生成しながら、コッコの方を向いた。殺意をむき出しにし、再び手を掲げて熱球の準備動作に入る。

 コッコも村田銃を構えた。

 息を吸う。息を吐いて、止める。今にも途切れそうになる意識を、その集中力だけで繋ぎ留めながら、引き金に指を掛ける。照星と照門、核が一直線に重なる瞬間を待つ。

 引き金は引くのではない。絞るものでもない。ただ、その時になれば絞り落ちるのだ。

 爆轟と共に閃光が銃口から奔る。唯一残っていた八咫烏製の霊導石を鋳込み、儀礼化を施した特別製の弾頭。霊力に乏しいコッコがそれを補うために、八咫烏儀礼化弾頭だけではなく独自に霊力を蓄積する機構を備えた弾頭が、風妖の核を過たず捉えた。

 風妖は圧縮した大気を放つことは叶わず、ただその妖力が周辺に無造作に吐き出され、やがてそれも止まり、その姿を霧散させた。

 コッコはそれを見届けて、膝から頽れると意識を手放した。




 あの子は行方知れずなんかじゃない。殺されたんだ。口減らしに。7つまでは神のうち、なんていって、村じゃ死んだとも思われていない。

 なんでこんなことになってしまったんだ。私が逝くべきだったのだ。あの子を逝かせるべきではなかったのだ。

 今日も私は谷へと来た。あの子を連れ戻すために。あの子を呼ぶために。何度も何度も、何度でも、この喉が張り裂けたってかまわない。あの子の身代わりとなれるのなら、どんなカミにだってこの身を捧げよう。何人だって、私の願いの邪魔はさせない。

 あぁ、帰って来ておくれ。私の愛しい、愛しい――。

 

 もうすでにどれほどの時間がたったのか、分からない。私はあの子を探して、足を滑らせた。体が動かない。このまま私は終わるのだろうか。

 嫌だ。まだあの子を見つけられていないのに、このまま死ぬのは嫌だ。せめてあの子が帰ってこられるように、私はここで呼び続けなければならない。

 どうかわたしを、止まることなく呼び続けられるモノに。

 

 ――あの子だ!あの子がようやく帰ってきた!

 だというのに、あの女が邪魔をした。近頃この谷によく来るあの女。一体なんだというのだ。邪魔をして。許さない。

 

 あの子が助けてって呼んでいる。あの子が力を欲している!

 だったら私が力を貸そう。今の私は、あの頃の無力な小娘なんかじゃない!

 ほうら、気に入らない奴らはこの通り。ついでにあの女も消してしまおう。

 あの子の為なんだ、これは、あの子ために私がやるんだ!私がすべて消して、壊して、あの子のために――

 

 ……だというのに、なぜだろう、あの子もあの女も、私を否定する。そんなはずないのに、あの子は戻ってきてくれたはずなのに。どうして。

 ――あぁ、やっぱり、あの子はもういないんだ。この子は、あの子じゃない。私の弟ではない。だったらこの子も、いや、こいつも、あの女も、消してしまおう。あの子はもう帰ってこないのだったら、なにもかも、無くなってしまえば良い――。

 

 私の中に広がってゆく、暖かいもの。何もかも失くしてしまったはずなのに、私の心の臓は今まさに砕け散ろうとしているというのに。悲しみだけじゃないものが広がってゆく。

 あぁ、そうか、あの女だ。あの女も、悲しそうな顔をしていた。私はあの女から、この子を奪おうとしたのに、彼女は、私を撃つことを悲しんでいたのだ。

 今までの妄執とも言える思いが霧散してゆく。あの子はもう居ない。けれど、私と、あの子の事を今なお思ってくれている人が、居たのだ。

 それだけで、私は少しだけ救われた気がした。




 夢を見ていた。そう自覚しながら、コッコは目を開けた。眦を擦ると濡れていた。

 大理石様の天井と点滴が視界に入る。自分の体は白くて清潔なベッドに寝かされており、横を見るとうたた寝をしている翔舞と湊の姿があった。

 全身がひどく痛む。限界を超えて霊力も肉体も酷使したせいなのは自覚していた。だが、体が動かないような大けがは奇跡的に避けられたようだった。

 ぱちり、と翔舞の目が開く。コッコと目が合うと驚いたように目を見開き、ついで涙を湛え始めた。えっと、とコッコが何かを話そうとする前に、翔舞は大きな声で泣き始めた。湊はその声を聴いて飛び起きると、静かにしなさいと叱り、やはり涙を流しながら、ナースコールを押した。

 

「大きな爆発音が何回かして、その後あの刑事さんがコッコさんと翔舞を担いで降りてきたんです」

 怪異を討伐したあとの状況を、湊はコッコに語った。意識のない二人を連れた和田は救急車を呼ぶと、自身は後始末のための指揮を執ったらしい。湊は二人に付き添い病院へと向かった。

 翔舞はすぐに目が覚めた。問題はコッコだった。3日ほど意識の戻らないままベッドで寝かされていたコッコだったが、その間に警察等の介入を受けることはなかった。翔舞と湊はコッコに付き添い、毎日面会時間ギリギリまでコッコに会っていた。

「その間に一回だけ、あの刑事さんが来ました。幸い、警察側に死者は出なかったみたいです。それと、これを渡してほしい……と」

 湊が差し出した手紙には和田からのメッセージが記されていた。

「怪異討伐の為協力してくれた民間対魔師に感謝する。だが、この市にはテロリスト認定された対魔師崩れが潜伏しているらしい。爆発物を製造しているとの噂もある。速やかに離れることをお勧めする。装備は此処に」

 メッセージと共に収められていた写真には、茶を飲む井上のご婦人と、その店内に装備一式とコッコの愛車であるPS250が置かれている様子が写っていた。コッコはクスリと笑った。

「そうですね、元からそのつもりでしたが、怪異も解決した今、ここから離れた方が良いかもしれません」

「えぇっ!」

「えぇっ、じゃないでしょ。コッコお姉さんにも事情ってモンがあるのよ」

 翔舞が悲しそうな悲鳴を上げる。湊がそんな翔舞を窘める。その様子を見て、コッコは再び笑い、そして告げる。

「大丈夫です。すべての問題が解決したら、また遊びに来ます。約束です」

 そう言ってコッコは小指を翔舞に差し出した。翔舞もその意図に気づいてか、小指を差し出して引っかけた。

「ホントだよ、待ってるから!」

「えぇ、もちろんです。でも、ちゃんといい子にしてないとどうなるかわかりませんよ?」

「が、頑張る」

「湊さんも、翔舞くんの話もちゃんと聞いてあげてくださいね」

「えぇ、もちろん」

 そして二人は再開を誓って、まじないを唱えた。



 暴風に巻き込まれていたにも関わらず、ホンダ製のフレームとエンジンは強靭だった。車体に傷こそ増えたものの、動作そのものは快調である。

 焼け縮れたポニーテールを少しだけ短く整え、バイクにまたがるコッコは次の行き先をどうしようか思案していた。K.A.I.N.T.から送られてきた霊力図はH市姉泣谷以外に異変を示していなかったからだ。それに装備も心もとない。45口径は失った。村田銃も最後の一発を打ち切り、今は文鎮と化している。

 行こうと思えばどこへだって行けるが、とはいえ何も指標がないところだった。

 いっその事東北にでも行こうか。恐山のイタコとその霊的原理について、K.A.I.N.T.の資料では見たものの実際の目で見たことはない。実地での研修は大切だ。これは仕事の一環である――そんな滅茶苦茶な理屈で自分を納得させようとしていると、端末に着信。送信元はK.A.I.N.T.だ。

 次の指示が来てしまった。なんて不謹慎な考えをしながら暗号化を解除して内容に目を通す。通信には、次の場所が示されていた。 

『東京都 渋谷第一触穢区 Cafe Outcast』

「これは……」

 戻ってこい、ということだろうか。とまれ、とりあえずの指針は立った。

 思い入れ深くなるほどに居ついたこの町を離れるのも辛いが、八咫烏隊員としての役目もある。後ろ髪を引かれる思いはあるが、仲間たちと合流したい気持ちもまた確かだ。

 ひゅおう、と風が鳴いた。悲しみを含んだ音だった。だが、どこか背中を押してくれているようでもあった。

「また来ます。今度は、是非貴女ともお話をしましょう」

 そう呟いて、コッコは手を振り、アクセルを開いた。