スノウドロップ・オーバードーズ
あらすじ:ホテルカデシュ。NYの会員であるエミリアとニーゼ。彼らはペアを組み、裏社会を統べるホテルカデシュの一員だった。
ある日、彼らはホテルカデシュの第六席、ヤスナカに呼び出される。ヤスナカは彼らにロンドンで起きている事態の解決を依頼し、それを受託したエミリアとニーゼは、ロンドンへと飛ぶことになった。
※注意:この小説は、VRChat内で行われる洋画風RPイベント「ホテル・カデシュ」をモチーフにした二次創作小説です。
「さん、に、いち」
カウントダウンとともに、ブロンドが靡く。髪を肩口まで伸ばした少年が振り返り、手にしたオートマチック拳銃の引き金を引いた。ぱちん、という、どことなく気の抜けた音と共に弾が飛び出すと、それは銃口の先のもう一人の少年に、当たることはなく通り過ぎていく。
「痛ッ!」
代わりにブロンドの少年に相対していた少年から、同じように放たれた白い銃弾――遊戯銃の弾頭だ、は的確にブロンドの少年の額を捉えた。
「だから力みすぎなんだって、振り返ったら手が届きそうなくらい近くにいるんだから、力抜いて撃てばいいだけだろ」
直感的な説明をする少年――アジア系と混血らしき黒々とした髪を流れるままに任せ、タイトな古着継いで出来たような衣服、つまりパンクファッションに身を包んだ彼は、呆れ半分に笑いながら、額を抑えてかがみこむブロンドの少年に手を差し伸べた。
「力む力まないとかじゃないって、依託射撃でも当たらないんだ。これはもう、世界がぼくに銃を撃つなと言っているに等しいだろ」
「はいはい、いつもの屁理屈だな」
「だいたい、僕に銃なんか必要ないんじゃないか?どうせドンパチやるのは君たちだろ」
パンクの少年の手を取りながらブロンドの少年が立ち上がる。
「その質問に答えよう、いつか自分で自分の身を守らないと行けない時がくるかもしれないだろ、その時に最低限、自衛出来るようにならないとな」
「いいや、僕は絶対そんなことにならないね」
「強情だな」
パンクの少年は面白がっているように笑う。
「じゃ、こうしよう。この後俺に一発でも当てられることができたら、今日のパブはおごってやる、どうだエミール」
エミールと呼ばれた少年が額をさすりながら
「そういうことなら覚悟しとけよルイ、酒が絡んだ時の僕はしつこいぞ」
航空機のアナウンスが鳴り響き、着陸を促した。LCCの非人道的なシートで、エミリアはゆっくりと目を開いて、自分が夢を見ていたことを認識した。麗しき故郷のロンドン、その路地裏で友人たちとつるんでいた記憶。普段思い出すこともないそれを思い出したのは、これから向かう目的地のせいだろうか、とエミリアは思った。隣には、じいっとエミリアを覗き込む女の顔。
「おはようニーゼ」
エミリアを覗き込む瞳は蒼く、その髪色も蒼い。肌身離さず身に着けているヘッドセットは、さまざまなセンサが詰め込まれている。対してエミリアは、ブロンドの髪を腰まで伸ばし、片目には拡張現実コンタクトレンズを嵌めているため一見してオッドアイに見える。二人とも、いかにも観光客か、或いはフリーランスが仕事で越境してきたといったような無難なファッションに身を包んでいた。
ニーゼはこくりと頷くと、シートに身を預けた。エミリアは離陸前に、NYからロンドンとは言え時差はあるから、フライトの間はたっぷり寝ておいたほうがいいと伝えていたが、どうやらこの無口な相方は想像より早起きだったらしい。時差ぼけしなけりゃいいけれどなどと思いながら、拡張現実コンタクトレンズの時刻表記をグリニッジ標準時に修正する。NYの夜に乗り込んで、ロンドンに着くのは朝方だ。窓を覗けば、もうすでに太陽が姿を表している。ジェット機がガトウィック空港へのアプローチに入ったことをアナウンスが告げた。
「ガトウィックと言えば、世界最悪の空港トップ10の一つにして、史上最大規模のドローン冤罪事件が起きた空港だ」
降機待ちの間、エミリアはニーゼに話しかける。
「2018年のクリスマスシーズン、百数十件にも及ぶドローン目撃情報が引き起こした14万人に影響を与えた空港封鎖。軍のアンチドローンシステムにも検出されない、目撃情報も定かではない、けれど一組の夫婦が犯人として担ぎあげられた事件。最終的には捜査は打ち切られて、今じゃネス湖のネッシーに劣らないミステリーだ」
ニーゼはその話に興味があるのかないのか、エミリアの方をちらりと見ながら、無言で続きを促した。
「つまりだ、ドローンは100人以上にも幻影を見せた集団ヒステリーだったのか、それとも本当の目的はガトウィックの封鎖で、ドローンを飛ばした上で、逃げおおせるだけのコネクションが犯人にはあったのか――どっちだろうね?」
そう言って、エミリアはにぃと笑いながら右手をニーゼの前に掲げた。人差し指には黒く光る指輪。ホテル・カデシュの会員であり、そして裏社会で跋扈する者の証。
二人は世界最大のマフィア組織、ホテル・カデシュの構成員だ。
時間は数日前に遡る。エミリアとニーゼはNYのラムセス通りに位置するホテル・カデシュ本店に呼び出されていた。世界最高峰のホテルに相応しい豪奢なエントランスに足を踏み入れ、アポイントメントがあることをレセプションに告げると、二人はエレベータに案内される。13階と書かれたボタンを押すと、二人の体は”浮遊感”に包まれた。エレベータのドアが開くと、警備が配置されたチェックエリアがある。
「土曜の夜以外でここに来るのは不思議な気分だね」
なんてつぶやきながら、エミリアとニーゼはチェックを通り、その先の厳重な、核シェルターじみた――実際、この”地下”は冷戦期の代物らしい――防爆扉が開くのを待った。
ドアの先にはエントランスに劣らずの空間。煌びやかな、それでいて上品さを損なっていないバーエリア。そして正面のカウンターには一人の女性が腰を落ち着けていた。緩やかなウェーブのかかった栗色のロングヘア。恰好こそジーンズとシャツに、スカジャンを羽織るというラフなものだが、それはどことなく獣じみた彼女の美貌を損ねず、むしろ引き立てていた。これで他称六十台というのだから、世の中の加齢に抗う女性たちはたまったものではないだろう。
エミリアとニーゼがカウンターに近寄ると、彼女は振り返り二人の姿を認めた。
「よく来てくれたわね、エミリアとニーゼちゃん。呼びつけて悪かったわ」
ニーゼは気にしてない、という風に首を横に振り、エミリアは口を開いた。
「構わないよ。ヤスナカさんの飲み友達は総支配人かソフィアさんしか居なくて、その二人が支配人の仕事に忙しくて、寂しいから僕達を呼んだってコトくらい分かってるから」
ヤスナカと呼ばれた彼女はハンと鼻を鳴らすと、
「あらやだ言ってくれるじゃないの……普段より生意気ね、アンタ」
「そりゃ、周りに気遣う必要もないからね。わざわざ会合じゃない時に呼んだってことは、積もる話があるんだろうさ」
「その通り、今日はアンタ達にお願いがあってね」
そう言って彼女は妖しく微笑んだ。
彼女こそがホテルカデシュ、その総支配人直属の〈最強の十人〉、十戒が一人、第六席、楊・安中だ。
「最近イギリスのロンドンでとある薬物が流行しているの、知ってる?」
軽く一杯でも、とヤスナカに言われて、エミリアはブルックリンラガー、二ーゼがコーラを頼むと、普段ヤスナカが立っているカウンターにいるバーテンダーが二人分の飲み物を用意する。二人がドリンクに口をつけたところでヤスナカが切り出すと、エミリアは頷いた。
「ああ、どうやらキメ過ぎると意識不明になる……って薬が流行ってるって噂くらいは。確か名前は――」
「スノウドロップ、雪のしずく、あるいは花の名前――そんな意味」
「”希望”?”慰め”?それとも”貴方の死を望みます”?」
「さぁてね、わからないけれど……知っているなら話は早いわ、お願いってのはね、ロンドンまで飛んでこの薬の流行の原因を調べて欲しいのよ」
ヤスナカの言葉にエミリアは怪訝な顔を浮かべる。そしてそれは我慢せずに言葉として放たれる。
「ちょっと待って、この時点でもう疑問点がわんさかある。第一に、薬関連なら僕じゃなくてもっと適任がいるだろ。赤い格好の闇医者やら、ヤスナカさんに懐いている雀蜂くんとか。第二に、現地の警察はどうしているんだ。デザイナーズドラッグだから法で取り締まれないとしても、スコットランドヤードは無能じゃない。幾らでもしょっぴく理由なんて作れるハズだ。第三に、ロンドンには支部があるはずだ。わざわざNYから派遣する意味が分からない」
指を一本づつ立てながら、エミリアはヤスナカにまくし立てる。傍から見ればマフィアのトップ層に平の構成員が噛みついているという異常な光景だったが、ヤスナカは気にせずそれに答える。
「そうね、普通ならそうでしょう。でも今ロンドンも異常事態なのよ」
「異常事態?」
「そう、HOLMESが機能障害を起こしている」
「はぁ!?」
HOLMES、イギリスが誇る世界的名探偵の名を関するそれは英国警察で使用されている捜査コンピューティングシステムであり、いわば英国の犯罪捜査の大動脈に当たる。それが障害を起こして機能不全になっているということは
「警察がドラッグ事件ごとき関わってられない……ってコトか」
「その通り、HOLMESそしてその混乱の裏側……つまりアタシ達のガワのコトだけど、それを抑えるためにロンドンの構成員が駆り出されていてね」
「なるほど、それなら納得は行く。でも最初の質問の解答がまだだ。薬物事件なら僕らじゃなくて適任がもっといるだろ」
そのことなんだけれど、とヤスナカは区切ると、再び話始める。
「今回の事件ね、単純な薬物事件とは違うとアタシは睨んでるの。同時期にHOLMESが機能障害を起こしたことも含めてね……。だから、電脳に明るい人材として、アンタを推薦してるってワケ」
「それは確証に基づくものじゃないね、要するに」
「女のカンよ、アタシのは当たるの」
「そうそれ……僕にはよくわからないな」
エミリアがぼやくとヤスナカはエミリアの恰好をまじまじと見つめる。腰までのブロンド、キャミソールの上にMA1を羽織り、デニムのミニスカートを合わせ、そして腿までの丈のソックス。一見して女のように見える格好。
「じゃあアンタ、なんで女の格好してるのよ」
エミリアは悪びれもせず答えた。
「似合うからね。それでも、僕は男だよ」
ガトウィック空港からロンドン市街に向けての公共交通機関は二つ、空港とヴィクトリアコーチステーションを結ぶバス、ナショナルエクスプレスと空港とヴィクトリア駅を繋ぐガトウィックエクスプレスの二つだ。在来線のナショナルレイルも同じくヴィクトリア駅に向かう公共交通機関だが、在来線より早いエクスプレスの方が主流だ。エミリアとニーゼの二人がオレンジ色の電車に揺られること30分強、電車はヴィクトリア駅に到着する。そこから乗り換えてウォータールー方面へ。ロンドン・ウォータールー・イースト駅で降り、テムズ側方面へ歩く。近代的な建築物と赤いレンガ造りが入り混じって立ち並んでいた。数分歩くと、一際荘厳で古めかしい建築物が現れる。
レンガで外壁は覆われ、建築から100年は経過してあるであろうその建物は、しかし見慣れたマークがエントランスに刻まれていた。
エミリアがにやりと笑う。
「ようこそ、ホテルカデシュロンドン支部へ……と言っても、僕が所属していたのはほんの一瞬だけだけどね」
一泊百万円の部屋に早速荷物を置いて、あらかじめホテルに輸送しておいた拳銃類といった装備を身に着けてからイギリス支部の面々との顔合わせと打合せを行う。おおよその情報はヤスナカから聴いていたものだったが、被害者数は増加の一途を辿り、今はカデシュの息が掛かった病院に入院させているものの、我々が認知していないであろう被害者を含めればその数はもはや数えきれない。意見交換と被害者の近親者との面談の予定を確認して、時刻は昼過ぎ。カデシュ・イギリスのレストランで昼食を取る。メインディッシュのムニエルをつつきながら、エミリアがニーゼに英国料理の基礎知識を教える。
「ニーゼは知ってるか分からないけど、イギリスの飯はマズい。今は改善してたりもするけど、ハズレを引くととにかく酷い。サンドイッチに犬がションベンをひっかけた後みたいな味の草と、病死したカラスの目玉みたいな味のする肉が挟まってたりする。そういう意味で、ここのレストランを利用できるぼくらは恵まれてるよ。ネフェルタリとピーコさん様々だ」
食後のブラックティーまで飲み干してからエミリアとニーゼはホテルを出た。
「早速仕事……でもいいけど、その前に一か所だけ、行っておきたいところがあるんだ」
エミリアはニーゼにそう告げると、道中の花屋で白いカーネーションと赤いバラを買った。それをニーゼが不思議そうな顔で見ていると、エミリアが答えた。
「墓参りにね」
ホテルを西進して数分、古い建物の向こうに近未来的な三角錐状の建物を見やりながら、たどり着いた場所は色とりどりに彩られた鉄柵だった。リボンや花、それから自転車やハンガーといったガラクタでめいめいに飾り付けられて、陰鬱なロンドンの空の下を精一杯に明るくしている。
「ここはね、クロスボーンズ・グレイブヤードっていう墓場だ」
ニーゼと横に並んでいたエミリアは一歩踏み出すと、鉄柵に持ってきたカーネションとバラを編み込む。
「この一体は産業革命期、売春宿が立ち並んでたエリアでね……ここも売春婦だとか、犯罪者だとか、そういう連中が眠ってる場所なんだ」
鉄柵に花を編み終えると、ぱんぱん、と手を叩いて、これでよしと呟き
「もっとも、墓場としては19世紀に封鎖されてて、今は庭園として公開されてるんだけれど……まぁ、墓もどこか分かんない連中だ、ここらへんに眠ってる方が性にあってるだろ、多分」
ニーゼはその言葉で察する。おそらく今、花を手向けたのはエミリアの英国時代のパートナー達で、エミリアはその墓参りに来たんだろう、と。
「トムとクラーク、それからルイ。僕の友達で、僕のチームメンバーだった。同じ孤児院の出でね。4人でツルんで、仕事をして、それから朝まで飲み歩いた。みんなイイヤツだった。僕がしくって、皆を殺した。そういう、よくある話さ」
ポケットから黒い箱を取り出し、中身のタバコを取り出す。咥えて、ライターに着火、そのままタバコに火を移し、鉄柵の前に置いた。普段はエミリアが喫煙をすると嫌がるニーゼだが、今この時は口を出さなかった。
「付き合ってもらって悪かったね、ニーゼ。ただでさえ曇り空なのにしんみりさせちゃって」
ニーゼの後ろから声が響いた。男の声だ。
「おいおい、死んだことにしてもらっちゃ困るぜ、エミール」
ばっ、とエミリアとニーゼが振り返る。ニーゼはパーカーの内に手を差し入れ、グロック19のグリップを握る。
「……イヤだな、僕が幽霊嫌いなの知ってるだろ、ルイ」
「知ってる。だから俺はホンモノだよ、エミール」
アジア系の黒髪を自然に撫でつけた70’s・パンクファッションの少年は、青年になってエミリアの前に現れた。
立ち話もなんだろ、と行ったルイは歩き出し、エミリアとニーゼもそれに続いた。バーモンジー・ストリートを2本外れた、人通りの少ないストリートに面したパブにエミリアとニーゼ、そしてルイと呼ばれた男が腰を落ちつけた。エミリアとルイの行きつけだった店だ。テーブルの上には1パイントのロンドン・プライドが2つ、ハーフパイントのシードルが一つ。
「ここの店はね、飯は最悪なんだ。フィッシュアンドチップスは機械油で揚げられてるみたいな味がするし、パイもミミズが這ったみたいな味がする。けどね、ここのロンドン・ブライドは、異常に安くて、それも旨い」
そうニーゼに言いながら、エミリアはグラスを軽く掲げてルイに聴く。
「何に乾杯する?」
「そりゃぁ、再会にだろ」
「そうだな、じゃあ、再会に」
二人のグラスが鈍い音を立て、あとに半分のサイズのグラスが続いた。ルイが口を開く。
「にしても生きてたとはなァ、エミール。びっくりだぜ」
「それはコッチのセリフだよ、ルイ。……野暮な質問かもしれないけど、クラークとトムは」
「……さぁな、俺も知らねぇ」
「……そっか」
エミリアとルイはグラスを再び掲げて、そろって言った。
「クラークとトムに」
「ところで、だ。そっちの彼女は?ガールフレンドか?」
「違うよ、ビジネスパートナー。ニーゼって言うんだ」
その言葉に無表情なニーゼが少し眉根を寄せて、それをルイは見逃さない。へぇ、と笑うと
「そう言えばちゃんと自己紹介してなかったな。ルイス。ルイス・フォスターだ。エミールとは昔つるんでワルやってた」
「ルイは僕の昔のチームのリーダーで、僕の事は――昔のよしみで、エミールって呼ぶ」
よろしくニーゼ、とルイが手を差し出すと、ニーゼはその手を握るのを一瞬だけ躊躇ってから握手する。その様子を見て短めの握手で切り上げた。
「無口なんだな、彼女」
「ああ、ちょっと事情があってね」
ニーゼが無口なのは、自分が話すことで声紋を取られることを危惧しているからだ。彼女は滅多なことでは話さない。こういうとき、おしゃべりなエミリアが彼女の代わりに話す。
「なァるほどね。ところで、今はエミールじゃないのか」
「あぁ、あの後いろいろあってさ、名前は変えたんだよ」
「そういうコトね、俺も呼び方、変えた方がいいか?」
エミリアは首を横に振った。
「エミールって呼んでくれよ。その名前で呼んでくれる奴の方が、今はもう少ないからさ」
それから3人は取り留めのない昔の話で盛り上がった。特にニーゼがエミリアの昔話を聞きたがった。エミリアもルイも酒で前後を失うような事はないが、少しばかり気は大きくなる質だ。面白可笑しくエミリアの過去を暴露するルイの話をニーゼは聞き入っていた。孤児院の同期で、最初に出会った時はお互いに「気に入らないツラだ」と思っていたこと。エミリアが孤児院の面々を虐めるジョックに嫌がらせをやり返したこと。それを知ったルイがエミリアに話しかけて、元からルイと一緒に居たクラークとトムとも友人になったこと。
「クソみてぇな孤児院だった。ガキの数だけ揃えて、後は助成金で私腹を肥やして、気に入らねぇことはガキで憂さ晴らしする……そんな院だった。だからまぁ、俺達の初仕事はその院をブッ潰すコトだった」
院長のパソコンに厳重に封じられた汚職の証拠は、ルイとクラークとトムが殴られている間に院長室に忍び込んだエミリアが抜き出してメディアに暴露した。ついでに、金庫にたんまりとあった汚職の証拠はエミリア達で頂いた。立ちいかなくなった院は、そのまま潰れた。エミリア達以外の子供は他の院に去ったが、エミリアとルイを含む4人はそのままロンドンに潜んで、仕事を始めた。
エミリアは三分の一ほど残っていたグラスを空にして言った「ぼくらの黄金時代ってヤツだ」
ソーホーの風俗街での出来事は、興味津々に聞き出そうとするニーゼと話したがりのルイ、自らの恥ずべきエピソードを必死に隠そうとするエミリアによって、この店で最も騒がしいテーブルを作り上げた。結局、エミリアが席を立ったところでルイに暴露され、エミリアの抵抗は空しいモノとなった。席に戻ったエミリアは満面の笑みのルイと、満足げな顔のニーゼを見て膝から崩れ落ちた。
「ルイ、改めて確認するけど、ニーゼにどんなコトを吹き込んだんだ」
「いいや何も?エミールくんが初めてのモデルハウスで一向に戦う準備が出来なくて、童貞卒業し損なった話なんてしてないぜ」
「怒るよ。ニーゼも何楽しそうにしているんだよ」
ニーゼが珍しくいたずらっぽく笑って、思わずエミリアは毒気を抜かれる。
「ああ、あとアドバイスもしといたぜ。ゴム製品は日本製を使え、エミールならちょっと厚めにしといたほうがいいぜ、ってな」
「余計なお世話だ!それにそういうんじゃないって言ったろ!」
数えきれない1パイントのグラスと、ハーフパイントのシードルが空くころに、3人は店を辞することとした。
「しばらくコッチにいるのか」
「ああ、仕事だからね。こうして遊んでられるのは今日までかな」
「そっか」
「今生の別れはもう済ませたんだ。これからはいつでも会えるさ。連絡先はさっき渡したとおりだしさ。なんかあったら気軽に連絡してくれよ」
「そうするさ」
「なんかなくても連絡してくれ」
「なんだよソレ」
くつくつとルイが笑ってから、手を掲げる。
「じゃ、またな、エミール」
「ああ、またな、ルイ」
エミリアと、ニーゼも手を掲げて別れの挨拶を告げる。三つの影が二つと一つに分かれた。
翌日、二人は自室のバルコニーにて、英国が誇る高級タブロイド紙「ザ・サン」を読みながら、高級ホテルにしては濃い目の味付けのイングリッシュ・ブレックファストをこれまた濃い目のブラックティーで流し込んだ後、まだオープンしていないホテルのラウンジに足を運んだ。テーブルには既にホテルカデシュ・ロンドンの管理部の男が席に付いており、エミリアとニーゼを待っていた。アジア系の血が交じり、髪をきちんと七三に分けた彼は、紳士というよりは俸給男という印象が強かった。エミリアとニーゼが席に着くと、
「今朝のザ・サンを読んだかい?あの紙の見解によると、シャーロット王女はエリザベス女王陛のクローンらしいぜ。英国が誇る脅威の技術の一端だ。MI6もびっくりだろうね」
「そうですか」
男はスモール・トークに興味はないらしかった。エミリアは肩をすくめると、本題に入った。
「現在、スノウドロップと呼ばれるドラッグのODで昏睡状態に陥った患者は、我々の息がかかった病院に収容しております。それから、これがロンドン全域の薬物流通のデータと電力消費量のデータ。特にカデシュ近辺のモノを収集しております」
「なるほど。で、このデータを元に、僕らはおねむのホームズ様に代わって、ワトソンごっこをしなくちゃならないってワケだ」
電子ペーパーで出力された情報をエミリアがデッキで読み取りながら確認する。薬物流通量は平時に比べて微増し、消費電力はバーモンジー周辺にてこれまた微増。だがこれでは薬物を生成し、カデシュに断りもなく流通させているという証左としては弱い。
「念のために聞いておくけど、この近辺で異臭騒ぎがあったって話はないよね。薬物を生成するときには匂いはつきものだけれど」
「ええ、それもありません」
「となると、ここらで大規模に製造しているワケではなさそうだ……他所から持ち込まれてるだろうね。その供給源を絶つ。或いは調べ上げて、あとは実働部隊に丸投げのところまで持っていく。こんなところでいいかな」
「ええ、よろしくお願いいたします。こちらから人員を増員することはできませんが、それ以外ならば協力させていただきます」
七三の男は連日の対応に疲労を隠せていないのか、目の落ちくぼんだ顔で答えた。
「よし、そうと決まればまずは病院に行こう。医者の意見が聞きたい。アポイントは?」
「用意してあります。こちらを見せれば最優先に」
男が差し出した書類を手にしたエミリアが立ち上がると、ニーゼもそれに追随した。
病院に向かうまでの時間でエミリア達は一度部屋に戻り、そして用意されたスーツを身に付けていた。一見ただの仕立ての良いスーツだが、裏地に複数の防弾素材が使用されている、カデシュの衣料部門であり、表向きの顔の一つであるSHROUD製の防弾スーツだ。見た目に反しクラスⅢAクラスの防弾性能を誇りつつ、ビジネスシーンでも寂れたパブでも”お客さん”で居られるという優れモノ。エミリアは普通にそれらを身にまとい、ニーゼは普段から着用しているボディスーツの上からそれを着こんだ。ニーゼのボディスーツは周辺の環境センサ、常人をはるかに上回るパワーアシスト、破片防御程度の防御力を備えており、ニーゼにとっては文字通り肌身離せない。エミリアは髪を纏めて、ニーゼは普段づかいのヘッドセットと、緊急時のための一式――荒事用のグロック等、諸々だ――をアタッシュケースに詰め込んだ。これで傍目には、ビジネススーツに身を包んだこれから商談に向かう女性が二人出来上がった。
テムズ川を渡り、大英博物館を通り過ぎたあたりに件の病院はある。受付に男から受け取った書類を差し出すと、すぐに院内に案内された。地下のひと区画を丸ごとスノウドロップの患者に割り当てているらしく、整然とベッドが並び、その上には規則的に胸を上下させるだけの人体が幾つも横たわっている。
院長と自己紹介した男が患者の経過を説明する。どの患者も昏睡しているが、時折急激に心拍数が上がり、脳波に異常が見られることがある。そしてそのタイミングは、いつも決まって全員に訪れるという。
エミリアは渡された患者のカルテを捲りながら話を聴く。ニーゼはその邪魔をしないように、隣で静かにしていた。患者の体内から検出された薬効成分について目を通すが、こちらは元からジャンキーも多いため、これと言って特異な薬効成分は検出されていない。だが、各患者の血液中には異常なタンパク質が存在することは発見されており、現在はそれの調査をしている、というのが現状のようだった。
「ナノマシン……かな?」
「おそらくは。血液中に存在していることは確認されていますが、これがどのような効果があるかは不明です」
「フムン。患者に共通点はあるのかい?」
「主に若年層、あるいはマトモなドラッグも買うことができない貧困層であるということ。主にここで診ている患者は貧困層の面々で、移民やホームレスといった人間が殆どです」
「とすると、そうじゃない……例えば、親が裕福だけど、たまたま引いてしまった哀れな少年なんかも居たりするワケ?」
「ええ、一名、上階で一般の患者と同じように扱われています」
「なるほどねぇ……」
エミリアはページを繰る手を止めると、
「その患者のご両親に話を聞きたい。今日、お見舞いに来るような人はいるかい?」
「それならば心当たりが、話は通しておきましょう」
「助かるよ」
「それから共通点はもう一つ、彼らは元々コンピュータ関連の職歴が」
「コンピュータ関連?」
「ええ、どうやら元はコンピュータ関連企業に務めていた後、失職した者が多い様です。それ以外の経歴の者にも、元は情報工学を専攻していた人物が多数です」
エミリアの眉が吊り上がった。
「それ、例の男の子もそうだったりするのかい」
「ええ、彼もまた、ロンドン大学・ロイヤルホロウェイ校のコンピュータ・サイエンス学科に所属しているようで」
「フムン」
エミリアは少しだけ考え込むと、当たり障りのない結論を出した。
「まだ情報は足りない、ひとまずその子の親に話を聞いてからだな」
「フランシス探偵事務所のケーティ・ブラックマンです。こちらは助手のドリーン・ヘイル」
ケーティ、数ある偽名の内、28番目のそれを名乗りながら、エミリアはテーブルの向こうの夫妻に手を差し出した。
「クライブ・ガードナーです。隣は妻のエマ。……息子の事で聞きたいことがあると」
手を握り返した男性はそう名乗ると、訝し気な目でエミリアとニーゼを見た。息子が意識を失ってから数週間、突如病院から紹介された”探偵”に向ける視線としては妥当な物だった。エミリアは自らをアメリカから事態解決の為に派遣された探偵であり、スコットランドヤードからの依頼を受けている、というカバーストーリーを並べ立て、次いでアメリカとイギリスでの探偵免許を見せた。もちろんその免許は偽造された物だったが、夫妻が一応協力的な姿勢を見せるには充分だった。息子さんはドラッグのせいで昏睡している可能性があります――とは言わなかった。
エディンバラ在住のガードナー一家は、どこにでもあるようなありふれた中流階級の家庭だった。一人息子のアンディー少年も、少し内向的なところはあれど特に問題がある人物ではなく、在学中に参加したプログラミングコンテストで受賞し、その実績を引っ提げてロイヤルホロウェイ校に進学した。進学後は勉学とパートタイム・ジョブと遊び歩くのに忙しい生活を送っていた。少しばかり遊びすぎる嫌いはあったものの、学生時代とはそういうものだろうとガードナー夫妻は思っていたし、内向的な面も代わってゆくならばそれで良いと考えていた。
だがある日を境に、それは後悔に変わった。珍しく数日講義を欠席したアンディーの安否を確認しに行った友人が、意識を失ったアンディー本人を見つけたからだ。アンディーは急遽入院し、そして意識は戻らないまま今に至る。
幸運だったことは、今時の男子大学生には珍しくガードナー一家は頻繁に連絡を取っていた事だ。大学での出来事やパートでの愚痴をチャットアプリに残していたおかげで、アンディー少年が意識を失う前の足取りも把握出来た。彼は今日は遊びに出かけると言い、そしてそのあとに意識を失った。アンディーの安否を確認した友人から訪れたクラブの名前を聞き出していたガードナー夫妻は、もちろんそのクラブにも足を運び、オーナーとその日出勤していた店員に話を聴こうとしたが、すげなく断られてしまったらしい。
「フムン」
一通り話を聞き終えたエミリアは相槌を打ってから、取っていた紙のメモ――頭部に付けたDNIによる思考筆記を行っているため、実際には取っているフリをしていただけだが――から顔をあげた。
「なるほど、重要な情報です。よろしければ、アンディー君の下宿先を調査させて頂いてもよろしいでしょうか」
ガードナー夫妻は頷いた。
その後、レンタルしたミニをニーゼが運転し、エミリアとガードナー夫妻を伴ってアンディー少年の下宿先に向かったものの、それらしい痕跡は発見出来なかった。エミリアはガードナー夫妻にアンディー少年を見つけた人物の連絡先と、探偵から連絡が行くかもしれないというアポイントを取っておいてほしい、と告げ、夫妻はそれを了承した。
「どうか息子をよろしくお願いします」
ガードナー夫妻の言葉にエミリアは全力を尽くします、とだけ告げた。探偵という身分はまるきり嘘っぱちで、僕らは阿漕な犯罪者。コッチにとって都合が悪いヤツを潰す為にこうして真面目ぶっているんだ……というそぶりは全く見せなかった。夫妻はアンディー少年の下宿に宿泊していくらしい。
「これは重要な情報だよ、ニーゼ」
二人だけになったミニの社内でエミリアは運転席のニーゼにそう言った。何も無かったのに?と言いたげにニーゼが横目でエミリアを見る。
「スノウドロップというクスリを使っていたハズなのに、その痕跡がない。薬物常用者が自宅の中で薬物服用の痕跡を完全に消すなんてのは不可能だ。一番安心出来る空間が自宅なワケだからね。つまりアンディーくんは、常習的にクスリをキメていたわけじゃない――たぶんそのクラブで誰かに唆されてドラッグを使って、それがスノウドロップだった――これは推測だけど、それなりに信用できる情報だと僕は思う」
ミニに一時間半ばかし揺られた後、レンタカーを返してカデシュの部屋に戻る。ルームサービスで運ばれてきたコロネーションチキンのサンドイッチを片手で頬張りながら、エミリアは今日の出来事を管理部に提出するためにキーボードに向かった。ニーゼはその邪魔をしないように先にベッドに入っていたが、結局彼女が寝るのはエミリアがレポートを提出し終え、ベッドに入ってからだった。
翌日、二人はカデシュ・イギリスとの簡単な打ち合わせを終えたあと、アンディー少年が意識を失っているところを見つけた少年を尋ねに、再びロイヤルホロウェイ校のあるエガムへとレンタカーのミニを転がした。ガードナー夫妻にアポイントを取ってもらったテリー少年に話を聞くためだ。二人は世界のどこにでもある緑のコーヒー・ショップで合流した。テリーは少しばかり遊び慣れている様子ではあったが、友人が意識不明であることに不安を覚えている様子だった。エミリアとニーゼを見て、やはりというべきか訝し気な目を向けてきたが、ガードナー夫妻に話したカバーストーリーでやはり一応納得した。
「しかし、だ」
自己紹介を終えた後エミリアが切り出した。
「君とアンディー君がかかわりを持つのは、すこしばかり意外だな。お互い交わるところの無いような人種に思うけれど」
「ああ、実際そう見えるだろうけどな……なんてことはないさ、たまたま俺がコンピュータ関係の講義を受けて、悪戦苦闘してるところにアンディーが声を掛けてきてな……。それで俺はその課題を教えて貰って、代わりに俺はアンディーと構内でよく話す仲になった。それだけだ、よくある話さ。思えばコッチにやってきて、交友関係を拡げようと必死だったのかもな」
「そういう打算はあれど、君とアンディー君は、友人と言っていい関係になった」
そういうとテリーは少し恥ずかしそうな顔をして頭を掻いた。
「まぁ、アンタもイギリス人ってならわかるだろ。真正面に”お前は友人だ”なんていう文化はこの国にはない」
「納得だ。そういうのが欲しいなら海の向こうに行ってくれとも思うね」
エミリアとテリーは笑った。ニーゼだけはピンと来ていないようだった。
「その日はなんて事の無い日だった。講義が終わって、パートの給料がお互いに入ったからってワケで、ロンドンにまで行って飲もうってなった」
テリーはコーヒーを啜りながら話し始めた。
「一件目はトンでもないハズレだった。レビューサイトじゃ絶賛されてたのに出てくる料理が悉く粘土をこねくり回して作ったみたいな味だった」
「ソイツはツイて無い……と言いたいけど、行っちゃ悪いが日常茶飯事だろ」
「そうだ、日常茶飯事だ。だから飲みなおそう、ついでに良い尻の女でも誘えれば最高だ、ってクラブに向かった。グランシャリオって名前のトコだ。悪くないクラブだった。だがまぁ、そういう時に限って良くないコトが起こるんだよな」
自嘲するかのようにテリーは笑う。
「そのクラブで女をひっかけるコトに失敗した俺らは適当にダベりながら酒を飲んでいたんだが――そこに一人の男が割り込んできた」
男は黒人で、フランスの訛りがあったがそれなりに綺麗な英語を話していた。テリーはその男の身なりにさして違和感は抱かなかったし、アンディーもまた同様だった。
ロンドンの移民は人口の2割強を占めている。白人のイギリス人の割合に至っては五割を切り、NYに匹敵する人種のサラダボウル具合だ。
ひとしきり他愛もない雑談を楽しんでから、男は奥の部屋へと二人を招待した。アンディーは引き返すことを提案したが、ここで引っ込むのはタフではない、と言って、テリーはアンディーを伴って奥へと向かった。
用意されていたのは注射器だった。とんでもなくヤバいところに脚を踏み入れた後悔と、それに勝る興味が二人の倫理観のブレーキを弾き飛ばした。
「で、どうだったんだい」
「いや……俺は何もなかった。なにも無かったんだよ。ただ……アンディーは、それで何かを見たみたいだ」
「何か、とは」
「俺には教えてくれなかった。ただ……うわ言みたいになにか呟いてた……」
呟いた内容までは覚えていなかった。そのトリップは数十分で終わり、二人は何事も無かったかのように店を出た。今日のことは忘れよう、そう二人は話して店を出た。
それから週が開けて、アンディーの姿はキャンパスにはなかった。少しだけサボるなら、よくあることかと思ってテリーは気に留めなかった。だが、それが2,3日続いた。
テリーはアンディーの下宿に向かった。部屋の鍵はかかっていなかった。中には倒れ伏したアンディーの姿があった。
「俺のせいなんだよ」
ぽつり、泣きそうな声でテリーはつぶやいた。
「俺のせいでアンディーはあんなになっちまった。俺が言い出さなければ」
「そうかもしれないね」
エミリアはあえて突き放すように言った。ニーゼが咎めるようにエミリアの方を見る。テリーは、そういわれて当然と受け入れるかのようにうなだれていた。
エミリアは真摯な目で、テリーの姿を見つめる。
「それでも、君が話してくれたおかげで僕達は助かった。これで、この事件の解決の糸口が見えたんだ、ありがとう。話すのは辛かっただろう」
こくり、こくりとテリーは頷いた。エミリアは一つ頷いて、席を立った。
「いい知らせが出来るように、僕達も努力するよ」
グランシャリオはソーホー地区にあるクラブだ。店内にはダンス・チューンが流れているような若者向けの店で、つまるところエミリアやニーゼが出向いてもなんの違和感はない。元は同性愛者向けのゲイ・クラブだったが、数年前にオーナーが路線変更し、誰でも入場可能になった店で、店内はまだソーホーが後ろ暗い地区だった頃の名残を残し、それが観光客にウケ、人気となった。ジャケットとパーカーを羽織ったラフな格好で、二人は店に出向いた。
適当なドリンクを頼んで、端にある席に付く。ニーゼはフロアを背筋を伸ばしながら興味なさげに眺め、エミリアは端末をノートパソコンのように広げて端末を机の上に置いて、気まぐれにキーボードの上に指を走らせているように見えた。日頃の喧騒を忘れる空間で、異様な二人に話しかけるような度胸のある人間はそこまで多くはなかった。時たま現れるそんな人物をすげなくあしらいながら、二人は待った。
「何してるんだい、二人で」
フランスの訛りがある英語だった。エミリアが端末から顔を上げた。
「人を待ってる」
視線の先には髪を短く借り上げた黒人の男が居た。一目見ただけでは遊びに来た若者だったが、しきりに周囲を見渡し、そして時折びくついたように背後を見る姿は奇妙に思えた。エミリアは警戒を強める。
「そうかい、ならその待ち時間を少し僕に譲ってほしいな。どうだい」
そう言って男は店の奥を指さした。カーテンに遮られた先に、個室があるようだった。コイツだ。エミリアは確信する。
「二人で行っていいんなら、話を聞いてあげようじゃないか、ニーゼ」
二人して席を立ち上がる。男は頷いて同意を示して、そして二人を個室まで連れていく。個室までの道にはカメラが一つ。そしてガードマンらしき男が一人。如何にもな黒スーツに身を包んではいるものの、チンピラ上がりなのかその所作は洗練仕切ってはいないようにエミリアには見えた。
三人が個室に入る。個室の中はソファとテーブルがいくつかあり、そしてテーブルの上にはアタッシュケースが一つ。黒服の男も後についてきて、出入口を塞ぐように立ちふさがる。男がテーブルの向こうに座り、エミリアとニーゼは立ったまま、男の話を聞く体制に入った。
「おいおい、ずいぶんおっかないじゃないか。英国紳士はレディ二人にこんな扱いをするのかい?」
「悪いね、外にバレたくないもんでさ」
「そうかい、それで、何を扱ってるんだよ」
「これさ」
男はアタッシュケースを開けた。中には使い捨ての注射器とアンプルがぎっしりと詰まっている。アンプルの中には半透明な薬液が充填されている。
「アンフェタミン?悪いけど、そういうのだったらやらないよ」
「違うね、これは俺たちの上が開発したモノでね。ナノマシンによって人間の脳を直接刺激する信号を送りこむ。新世代のドラッグさ」
「ふぅん」
エミリアは興味無さげに、アンプルを一つ摘まみ上げた。男はエミリアを煽り立てる。
「まさかビビってるとかねぇよな、嬢ちゃん。それとも実は真面目ちゃんだったのか」
「そういう煽りはつまらないな。それに真面目ちゃんってのも違う」
「悪いね、今日で君たちの商売はおしまいだ」
次の瞬間、後ろに控えていたニーゼが体を180度回転させ、その勢いのまま空中回し蹴りを繰り出した。狙いはもちろん、出入口に控えている黒服だ。ニーゼのしなやかな動きを、彼女の全身を覆うサイバー・スーツが補助し、そのスピードを加速させる。黒服は反応する間もなく、顎を強かに刈り取られ、そのまま呻くことも出来ずに地面に倒れ伏した。
「は」
男が間抜けな声をあげて、黒服が倒れてゆくのを見る。このビジネスを始めてから、グランシャリオでブツを売りつける時はいつもひいきにしていた用心棒だった。レスリング団体に所属していたこともあると豪語する男だった。それが女の蹴りごときで倒れていることが理解できなかった。
思考が現実に追いついた時、男が認識したのは黒い塊だった。エミリアがジャケットの下からグロックを引き抜いて、男に突きつけていた。
「悪いね、ココはウチのシマなんだ。洗いざらい吐いたら、命だけは助けてあげるよ」
三秒以内に決めてね、というと、エミリアは引き金に指を掛けた。あまりの躊躇の無さに、男は悲鳴をあげた。
「わかった!話す!話すから!」
男が叫ぶと、エミリアは引き金から指を離した。
「オーケィ、話が早くて助かるよ」
エミリアがグロックをホルスターに仕舞う。男は知る由もない、エミリアのグロックは、薬室に弾を送り込んでいないことを。端から脅しに使うつもりで、撃つつもりなんて欠片もなかったことを。仮に撃ったとしても、エミリアの射撃は下手くそすぎて、当たらなかったであろうことを。
黒人の男はジョージと名乗った。出身はロンドン、セカンダリー・スクールを前期課程で修了し、その後いくつかの仕事を渡り歩く。定職につかない様子を見て、家族からは距離を置かれたが、代わりにセカンダリー・スクール時代の似たような同期とは関係を持っていた。
そうした若者を、ギャング達は見逃さない。社会の爪弾きにあった者たちをまとめ上げ、時に暴力で、時に報酬で彼らはジョージのような若者を”末端の売人”に仕立て上げる。幾度か上に立つギャングが変わり、扱う”商品”も変わりながらも、ジョージが彼らの奴隷であることには変わりなかった。
そんなある日、またもや上の人間が変わり、扱う商品は粉から液体になった。そして、売らなくていいからとにかくいろんな人間にバラ撒け、と命じられた。ジョージの仲間はとにかく配ることを優先し、ホームレスや肉体労働者など、手軽な娯楽に飛びつきそうな人間をターゲットにしていた。ジョージだけは狙いを変えた。暇をもてあまし、人生経験が少なそうな人間――学生を狙い撃ち、そこから口コミで広がれば安定した顧客が見込めるだろう、そう考えていた。
「それで?今の君が卸してるコレ、なんて名前なんだ」
エミリアはジョージの対面に座りながら詰問する。ボディガードの男は拘束した上で、ニーゼがグロックを突きつけ――こちらは、きちんと薬室に弾が送り込まれている――静かにさせている。
「上の連中はこう呼んでた。『スノウ・ドロップ』って」
「そうか、これが」
エミリアはアンプルを摘まみ上げて、薄暗い光の中にかざした。光を通すと微かに白濁した液体が、雪のようにきらめく。
「名づけた奴はたいしたロマンチストだね」
皮肉めいて一言言ってから、エミリアはアンプルをケースに戻し、蓋をする。そしてそれを自らの手元に引き寄せた。ジョージに決定権はなかった。
「そうそう、君たちにこれをバラまけ、って命令したヤツ、なんて名前なんだい」
「名前は……イニシャルだけしか聞いてないんだ。JとかHとか、聞いても仕方ないだろう。……でも、俺たちの直属の上の人間が、電話をかけていた相手の名前なら分かる」
「なんて名前だ?」
「ミスタ・フォスター」
その名前に、ニーゼは思わず監視していた黒服から、ジョージに視線が移り、そしてエミリアを見た。
「フォスター、フォスターね」
エミリアは平静を保って、それを思考筆記でメモしている。だが、ニーゼにはその声に、わずかばかりの震えを感じた。
「オーケィ、では、ジョージ。ココでの出来事は誰にも秘密だ。そこの彼にも伝えておいてくれ」
エミリアはアタッシュケースを片手に立ち上がり、ジョージにウィンクした。ジョージは一瞬だけ、エミリアに見惚れてから、そのあと何度も頷いた。
グランシャリオからの帰路はバスだった。ロンドンには24時間運航しているバスと地下鉄が存在する。ナイトクラブ帰りの人間を車内に抱えて夜のロンドンを二階建ての赤いバスが走る。夜の風景が見たいだろ?とエミリアはニーゼを窓側に座らせ、エミリアはその隣に座った。
しばし沈黙の時間が流れる。フットボールがある日の車内は騒がしいが、そうでない日の車内は静かなものだった。ニーゼはエミリアに勧められた外の風景を見ながらも、落ち着かない様子でエミリアの方をちらちらと見る。
「30万人、イギリスとアメリカのフォスター姓の人口が、30万人だ」
そんな様子を見かねてか、少し苦笑いしながらエミリアは話を切り出した。
「フォスターって姓はドイツにもあるし、それ以外の国にだってたくさん居る。だからまぁ、そんなコトはないと思うよ」
そんなコト。つまり、ルイがこの事件の裏側に居る可能性。エミリアはその可能性を否定した。
「大丈夫だって、後はそのフォスター何某だけさっさと調べて、ヤスナカさんに引き継ごうぜ」
にぃ、と不敵に笑うエミリアを見て、ニーゼも少し落ち着きを取り戻した様だった。バスがカデシュ・ロンドンの最寄りに止まる。二人は席を立ち、バスのステップを降りた。
数時間後、ジョージが死んだと、BBCロンドンニュースで放送されることを二人はまだ知らなかった。
奪取したスノウドロップの現物をカデシュ・イギリスの管理部に引き渡した後、自室で休息を取っていた二人にとって、ジョージの死は寝耳に水だった。警察の汚職警官を通じて手に入れた情報によれば、死因はいわゆる心臓発作で、おおかたヤクの売人が自前の商品に手を出し、そのまま中毒死したとほぼ結論づけられていた。HOLMESの機能不全という混乱の最中、売人の中毒死は話題に上がることもなく、捜査資料はそのままカデシュに流れ着いた。
管理部の七三分けの男に一通りの説明と捜査資料を受け取り、簡単に事情を説明する。エミリアとニーゼが殺したわけではないことを説明すると、七三分けの男は納得した。
「それで、このまま調査は続けますか」
「もちろん。ジョージが消されたってンなら、逆に考えれば真実に近づいてるってコトなんじゃないのかい?」
七三分けの男にエミリアが答える。男は特に反論もせず、席を立ちながら言った。
「わかりました。では、本店の方にもそう伝えておきます」
部屋に戻ったエミリアはフェイスブックやインスタグラム等のSNSを調べ、他の売人の足取りを掴んだ。しかし、幾人かの売人に匿名の捨てアカウントでコンタクトを取ろうとしたものの、その成果は芳しくなかった。
SNSを通した薬物販売は今やメジャーな販路で、彼らはフットワークも軽い。ジョージの話からしてもこの手段でコンタクトが取れないことは無いだろうと思っていたエミリアにとっては、これは意外な結果でもあった。ダークウェブ上でも同じように、新しい薬物を取り扱っているという売人にコンタクトを取ったが、返事は返ってこないか、別種の薬物であるかのどちらかだった。
OSINTが通用しないのであればと、他の攻撃手段での情報収集を試みる。収集したアカウント情報からパスワードの傾向をデッキ内のAIに分析させ、クラック用の辞書を作成しつつ、同時に自動生成でのフィッシングメールやチャットを方々に送信した。こちらの成果が出るには相応の時間が掛かる。
待っているだけでは時間の無駄と判断したエミリアは、現地で情報を集めることに決めた。
再びソーホーに出向いたエミリアとニーゼは、地道に脚を使って聞き込みを行う。一見地味でハッカーらしからぬ行為だが、エミリアはこのような情報収集活動が重要であることを知悉していた。電子情報は企業や個人が何重にも防護策を取っているが、人間の目や口まで誤魔化しきることはできない。ハッカーは決して安楽椅子探偵などではないのだ。
3人目のホームレスに聞き込みを行い、売人の1人に連絡を取ろうとしたタイミングで、エミリアのメッセンジャーアプリに通知が入った。
差出人はルイだった。
渡したいものがあると言われて、エミリアはルイがソーホーに出向いてくることを条件にそれを了承した。北ソーホーにはヨーロッパ最大級の中華街があり、その中華門の下で待つことにした。売店で買ったカップの中国茶を片手に、二人して行き交う人々を眺める。中華系はもちろん、英国の食事に嫌気が差し、中華街に幾つか存在する日本料理店を求めて散策する日本人観光客等の姿もある。
そうして十数分が経過する。ルイはふらりと中華街に現れた。エミリアが手を振ると、ルイも答えるように手を挙げた。
「よぉ、呼び出して悪いな」
「まったく、仕事だって言ったろ?それで、要件は?」
「あぁ……コレを渡しておきたくてさ」
「はいはい、何だか知らないけどありがとよ」
ルイはポケットに手を入れ、何かを掴むとそれを投げ渡した。エミリアは深くは考えずにそれを受け取った。手を広げて、投げ渡された物を確認する。ガラスの小瓶のような物。中には白濁した液体。昨日も見たその物体は、間違いなくスノウドロップだった。エミリアの目が驚愕で見開かれる。エミリアの反応に、ニーゼはすぐさまパーカーの内に隠したグロックを抜こうとして、周りの人混みを見て思いとどまる。だが、グリップから手は離さない。ニーゼはエミリアと違い、薬室に初弾も送り込んでいる。ルイがこれ以上怪しい動きを見せれば、即座に引き抜いてルイを撃つ構えだ。
「ルイ、君はなんでこれを」
震える声を絞り出して、ルイに問いかける。
「あぁ、探してるんだろ?コレ」
ルイはにこやかに答える。
「そうじゃない。一つ目は、なんで君がコレを持っているんだってコト、二つ目は、なんで僕らがコレを探しているのを知っているのか、ってコトだよ」
「一つ目に答えよう、俺がバラまいてる元凶だからだ。二つ目に答えよう、お前たちの動向はずっと監視してた」
ルイはあっさりと、なんてことのないように答えた。
「なんでだ、って顔してるよな、安心しな、国家犯罪対策庁とかじゃねぇから、しょっ引こうってわけじゃない。ただ」
そう言って、ルイはエミリアの手を指さした。
「その指輪、俺もよく知ってるよ。ホテル・カデシュ、世界最大の暗殺組織。上にアレコレ指図されるのが嫌いなお前が最大手勤め。意外だったよ、エミール……いや、今はエミリア、って名乗ってるんだっけな」
エミリアははっとして、自分の右人差し指の指輪を見た。イギリスに来てからも肌身離さず付けていた指輪だ。ルイはその意味を知っていた。
「ずっと、騙してたのか」
「騙すなんて人聞きが悪いな……。あそこで再会したのは本当に偶然だよ。飲んでる時も、心底楽しかったし、懐かしかった」
ルイは首から下げたいくつかのアクセサリの中から、ボールチェーンの物を手に取ると、服に隠れている部分を見せつけるように引き抜いた。チェーンが作る環の先には、エミリアの指に嵌っているものと同じ黒い光を反射している。
「改めて自己紹介しよう、ホテル・カデシュ・フランス所属、ルイス・フォスターだ」
固まるエミリアに反して、ニーゼの反応は速かった。インナーとして着こんでいるサイバー・スーツのアシスト出力を跳ね上げる。ここでルイを捕縛、ないし殺害すればそれで片が付く。そう判断したニーゼは目立つ拳銃ではなく徒手空拳で挑む選択をした。グロックから手を離すと同時に、縮地めいてルイとの距離を詰める。不意を打つために大技ではなく、最速で繰り出すことの出来る打撃を選択。並みの殺し屋であればその一撃を顔面に叩きこまれて地面に突っ伏す。
猛禽のような一撃に対し、ルイはその攻撃を完全に見切っていた。スウェ―で回避し、まるで散歩道でちょっと珍しい物を見つけたかのような目でニーゼを見つめ、そしてカウンターの拳をニーゼに向け振るう。余裕のある素振りは神経系を樽漬けした者特有の超反応の一種だ。敵は神経伝達系を強化している。一瞬で判断したニーゼは回避を諦め、ガードしてさらに踏み込もうとする。一発食らったとしても、リーチに勝るルイにアウトボクシングされるよりもインファイトに持ち込んだほうが良いという判断だ。
ニーゼのガードがルイの拳を防ぐ、かに見えた。いや、防いではいる。しかしその衝撃をニーゼと、その身体を守るサイバー・スーツは受け止めきれずにニーゼは後退しそうになる。だが一度引けば、白兵で勝機がないことは明らか。再度前のめりに距離を詰めてゆく。
そこでニーゼは違和感を覚えた。スーツの出力が低い。だがしかしすでに前に歩を進めている状況では止まれない。ルイのジャブが眼前に迫る。ARコンタクトレンズとヘッドセットのセンサーが拳の起動と速度を計測し、最適な回避経路を提供、しない。ニーゼは咄嗟にルイの拳を払うが、そのせいで姿勢が崩れる。空いたボディーにルイの拳が突き刺さる。ニーゼがたたらを踏んで、後退する。
内側に響くような痛みに耐えながらニーゼは困惑する。ARコンタクトレンズに表示されるHUD上にエラーが走っている。自らのサイバー・スーツが機能不全を起こし、出力が定格の1割を下回って、さらにその数値は下降を続けていた。この状況では、ニーゼは多少運動が出来る女性程度の身体能力しか発揮できない。
「あぶねぇあぶねぇ……あの売人の護衛を一撃で倒したトコ見てなかったら、警戒できなかったぜ」
ルイがにぃと笑う。この場を支配している人間の笑い。
「悪いなエミール、それとニーゼ、だっけか。俺の方がお前らより、何歩も先に進んでるんだよ」
ルイが指を鳴らす。次の瞬間、エミリアとニーゼのARコンタクト視野に次々と映像が投影された。この中華街のあちこちに設置された監視カメラ、観光客が持っているスマートフォンのカメラ、そして自分たちを見下す、ルイの視界。
「俺はフランスからの依頼である物質を託された。スノウドロップ、自己修復、自己増殖するナノマシン系ドラッグ。だがコイツの真価はただのドラッグじゃないことだ」
ARレンズに表示される視界が次々と変わる。スコットランドヤード内部の留置所のカメラに代わり、その牢の電子ロックが解除されるところが映る。病院の一室では、患者に装着された医療器具が異常な値を示し、甲高いアラームが流れる。ロンドン市街で自動運転中の車の車載カメラが映り、そのまま暴走してレンガの壁に激突する。
「コイツは極小のコンピュータだ。脳の一部分の演算能力を強奪して無限に並列化していく、世界最小にして最大のな。その能力をちょっと使えば、お前みたいに色々出来ちまうってワケさ」
「……ご高説痛み居るよ、ルイ。……一応聞いておくけど、ジョージって男、知ってるかい」
「ジョージ、ジョージ……あぁ、アイツか。殺したよ。ほら、邪魔だったからさ」
ようやくエミリアが絞り出した悪態と疑問ををルイは笑った。前者はまるでお前は変わらないなというかのように。後者は、まるで意に介していないかのようにそして、右手をエミリアに向けて差し出してきた。
「なんのつもりだよ」
「なぁエミール、また俺と組まないか」
エミリアを正面から見るルイの目は、あの日と同じ目だった。幼い頃、自分のハッキングの腕を見込んで、自分たちのチームに誘った目、訓練という名目でじゃれあうように遊びに誘った目。
「俺達が組めば、フランスで頂点を取ることだって目じゃねぇ。上の連中は多少古臭いが、実力で黙らせればいい」
「…………僕が首を縦に振るとでも」
「今すぐになんて思っちゃいないさ。考える時間は必要だ、二人で。ただまぁ、あんまり時間はないぜ。上の連中がロンドンを落したがってる。タイムリミットはあと36時間ってトコか。それに、ちょっと騒がしくしちまったからな」
ふと気づいて周囲を見れば、周りの人間がこちらを遠巻きに見ていた。遠巻きに眺めている人々の中には、懐に手を突っ込んでいるものも居る。おそらく、こちら側の人間で、ルイからの指示があればすぐさま懐の拳銃を引き抜くのだろう。
「まぁ、いつでも連絡くれよ」
そう言ってルイは背を向けた。言いたいことは言い終わったようだった。ニーゼはその背中にグロックを抜き撃とうとしたが、エミリアがそれを静止した。ニーゼがエミリアの方を見る。エミリアはルイの背中をじぃっと見つめていた。怒りと悲しみの感情、そして、その心の奥底を透視できないかと祈るような目だった。
ルイは振り向かずに去った。
カデシュ・イギリスに返ってきたエミリアは、
「しばらく1人にしてくれないかな」
と目も合わせずにニーゼに告げると、ホテルの一室に籠った。
現在時刻は13:43。ニーゼは自己診断プログラムが走るARHUDを眺めながら、自分はおそらく、この後は役に立たないだろうと考えて居た。
あの一瞬の交戦でニーゼは自身のサイバー・スーツの防壁をクラックされた。ニーゼの能力の大半は、サイバー・スーツとヘッドセットに集約されている。スーツ表面とヘッドセットのセンサによって感知範囲を増強、そのフィードバックをスーツに編み込まれたプロセッサで解釈して、ニーゼの動作に合わせて最適なアシストを行う。これによって彼女は、戦闘能力だけで言えばカデシュの上級会員層と肩を並べる。
しかしそれはスーツの能力を引き出しているときだけに限る。サイバー・スーツが無くなれば、使い道のない適正しか持たないただの女になる。その状況ではエミリアと肩を並べる資格は、自分にはないと考える。
部屋の向こうのエミリアの事を思う。今彼は何をしているのだろうか。死んだと思っていた友人が生きてて、奇跡の再開を果たして、しかしそれが敵の軍門に下っていた、そんな現実について、何を考えているのだろう。
ニーゼには似たような人生経験はない。研究所の実験動物だった時から、彼女は一人だった。あらゆる意味で”道具”でしかなかった。普通の人間の生活はあまり知らない。普通じゃない人間の生活は、ここ数年で少しだけ知った。妻を失った者、父を失った者、母を失った者、きょうだいを失った者、恩人を失った者、尊厳を失った者、美貌を失った者。いろんな喪失の話を知った。喪失だけではない。娘を得た話、友人を得た話、相棒を得た話、いろんな人の事を知った。
だけどニーゼは、エミリアにどう声をかけて良いかわからない。彼はいつも飄々としていて弱みを見せなかった。エメスで脳を焼かれかけて、そのあとに明らかに自分よりも勝る体躯のサイボーグに追いかけまわされている時も、初めて組んだ暗殺任務で、ニーゼがトラップに引っ掛かり、警報を鳴らして警護していたギャングに追いかけまわされた時も、ニーゼがエミリアを殺そうとしたときも、彼は笑っていた。笑いながら困難に立ち向かっていた。
こんなに苦しそうな表情のエミリアを見たことは今まで無かった。だから、なんて声をかけていいのか分からない。
豪奢な時計の針が動き続ける音を聞きながら、ニーゼはただひたすらに待った。スーツの自己診断プログラムのシークバーも、一時は滲んで見えたが今ではとうに走り終えて完了の文字をホップアップさせている。
日が沈んで、相当に時間が経過して、流石に身体の方が空腹を訴えてくる。こんな時にでも生理現象を訴えてくる肉体にニーゼは苦笑を覚えつつも、何か用意しようと立ち上がった。ついでに、エミリアもおなかが空いてるだろう、何が良いか聞いておこう、と思って、エミリアが籠っている部屋に向かおうとする。
バン! と大きい音がしてドアが開いた。
「ひゃっ」
突然の大きな音にニーゼは悲鳴をあげた。普段無口な彼女の、珍しい発声だった。
心臓を落ち着けながら、ドアの向こうを見る。エミリアが立っていた。目は充血していて、一心不乱にディスプレイを見続けていたことは容易に分かる。
「ニーゼ、ちょうど良かった。聞いてくれ」
エミリアはそこで言葉を区切って、一度呼吸を入れて、そして続けた。
「僕じゃルイに勝てない。でも、僕らなら勝てる方法を見つけた」
エミリアは笑う。ニーゼも今まで見たことがない、歪んだ笑顔で。
二日後、23時。バーモンジーに未だわずかながら残る倉庫の一つに、ルイはいた。内装はほぼ倉庫そのままだが、空調はしっかりと制御されており、内部にはわずかながらに人が生活出来るスペースと、廃棄され、買い取り手も着かなかった埃を被った工業機械。そしてその場には似合わない、壁と屋根で完全に区切られたエリアに幾つかのサーバラックがある。
ルイは日付が変わった瞬間に行動を起こす予定だ。既に市街にはフランスの手の者を配した上で、ディープウェブを経由して「自発的なテロリスト」達を煽る。刻限が来た時には、ロンドンのあちこちで事件が起き、恐慌状態に陥るだろう。その隙に乗じてカデシュ・ロンドンを制圧する。警察組織は既に麻痺寸前な上、ロンドンからは目立って動きがある様子はない。ルイは作戦の成功を九割方確信していた。
残りの一割はエミール――エミリアのことだ。未だに連絡は無い。町中の監視カメラがあの二人を監視していたが、ホテルに戻って以来二人が出歩いた形跡はなかったし、こちらのネットワークはあらゆるクラッキングを検知しなかった。エミリアがこちらの探知を搔い潜った可能性は否定しきれない。が、ルイはその可能性は0パーセントだと踏んでいた。
ニーゼとの一瞬の交戦でクラッキングを行ったとき、エミリアはその攻撃を防御できていなかった。おそらく全盛期の、数年前のエミリアだったら不意打ちであってもこちらのハッキングを感知して、防壁を立てるくらいの事はやっている。ルイと組んでいた時よりも、エミリアのハッカーとしての技術、勘は比較にならないくらい衰えているだろう、とルイは判断した。
加えて、カデシュ・フランスの資料にはカデシュ・ニューヨークに所属している人物についてもある程度プロファイルされている。エミリアの項目にはこうあった。
『フリーランスのハッカーだった時よりも、その能力は衰えが見える。』
自分も含めて、カデシュ所属以前からの情報まで収集されていたことには驚いたが、その情報は自分の判断を後押しした。
「さぁてと、後はどう出てくるかな、エミール」
スマートフォンのメッセージを確認。2時間前には、最後通牒のつもりでエミリアにメッセージを送信した。もう時間はないぞ、と。スマートフォンを仕舞い、代わりにポケットから黒い煙草の箱を取り出し、一つ咥えて火をつける。エミリアが墓に備えた者と同じ銘柄から生まれる紫煙を肺に取り込んで、そして吐き出す。
ニコチンが身体に回る感覚を味わいながら、周りを見渡した。この倉庫は元はエミリアと、トムとクラークとの四人で根城にしていた場所だ。バーモンジーの再開発に巻き込まれず残っていたのは奇跡的だった。フランス側からは他の拠点も提案されたが、ルイはこの場所から離れる気にはならなかった。それがノスタルジーなのは分かっていた。ただ、死んだ三人のことを思うなら、ここから離れようとは思えなかった。
クロスボーンズに向かったのは全くの気まぐれだった。ただ、四人で酒を飲んでいる時に、「俺達はマトモに死ねるわけないよな」と軽口を叩き合っていたから、そういう場所がふさわしいと思った。タバコの一本でも手向けて、それで禊とするつもりだった。
だが、クロスボーンズの柵の前には見覚えのある金髪が踊っていた。隣には見知らぬ女が居て、親し気に話している。
なぜ生きているのかという嫉妬にも似た負の感情と、生きていて良かったという正の感情がない交ぜになる。エミールのフラットが吹き飛び、電話越しにクラークとトムの断末魔を聞き、惨めにロンドンを這いつくばって脱出し、海を渡ってカデシュ・フランスに恭順し、なんとか生き延びた自分と違って、エミールはあの日から全く変わって居ないように見えた。
そして、その指に嵌る黒い指輪。何度も見たその指輪は、カデシュのもので。
最初はフランスからの増援だと思おう、としていた。だから話しかけて、昔の様に飲みに行った。それでも、エミリアも隣の女も気付く様子は無かった。全く味の感じられないロンドン・プライドを流し込みながら、フランスのデータベースに照会を掛ける。
エミリア・ベルウッド。カデシュ・ニューヨーク所属。それが突きつけられた事実だった。
タバコのフィルターが熱で溶けるほどの時間が経って、ルイはようやく火を消した。スマートフォンが震えたような気がして確認する。メッセージは何もない。
そうだよな、と納得してスマートフォンを仕舞おうとして、直後にメッセージが表示された。カデシュ・フランスから派遣された下級構成員からの報告だ。ロンドンから一台のバンが出てきた。乗っていたのは二人。金髪の女と青髪の女。
金髪の方は男なんだけどな、と思いながら、バーモンジーに配置されていた構成員に、同じバンが来たら迎撃するように命じると同時に、ニーゼの方を無力化しようと、スノウドロップを起動させる。ロンドン中のスノウドロップによって昏睡している患者の脳のリソースを奪い、まずは二人の車の位置を探る。バンはまっすぐにバーモンジーに向かって来ていた。
あらゆるネットワークを経由して、瞬時にニーゼを電脳上で捉える。あとは想像するだけで、スノウドロップがその思考を読み取って最適な攻撃手段を選択する。ニーゼのサイバー・スーツの防壁を突破するだけだ。電脳の海に意識の半ばを飛ばしながら、ルイは鼻歌交じりにそれを破ろうとして、違和感に気付く。同じ手段をエミリアが許すかという違和感。データ階層でさらなる検索を仕掛ければ、エミリアが仕掛けたデータ爆弾。全く同じように防壁を解除すれば、高速バイナリ情報の奔流に脳を焼かれていただろう。エミリアはあえて防御を甘くすることでこちらにカウンターを仕込んでいた。
博打打ちらしいエミリアらしい手ではあるが、そこまで驚くようなモノではなかったな、と肩透かしな気分でデータ爆弾を凍結させる。
次の防壁は、少しばかり強固だった。コンマ一秒事に変わるパスワードは、それなりの腕前のハッカーでも1人で突破するのは困難だろう。だが、数十人の脳で演算するスノウドロップの前には2,3分の時間を稼げる程度でしかなかった。これで終わりか? エミリア・ベルウッド。幾ら衰えたと評されていても、昔のお前はこんなんじゃなかっただろう。と内心失望していると、今度こそスマートフォンが鳴る。そのまま、電脳状態で受信する。電話の主は部下だった。
「何が起きた」
「バーモンジー各所で、ドローンが飛び立ちました」
「ドローン?」
「ええ、数十機がそちらに向かって飛んで行っています。」
再び意識を電脳に引き戻す。ドローンのシグナルがバーモンジーの空を埋め尽くさんばかりに主張する。そのうちのいくつかの機体には爆薬が積載されているシグナルを発している。数で欺瞞して、爆薬を搭載した本命をぶつける気だろうとルイは判断した。
粗雑にスノウドロップを走らせて、片端からドローンの制御を奪うとバーモンジー地区に落下させる。
「……なんだよ、エミール。どれもバレバレじゃねぇか」
思っていたことが我慢できずに、ルイの口から独り言として漏れた。
「頼むよ、このままじゃ、弱くなったお前を殺すだけで終わりじゃねぇか。お前はそんなつまらねぇヤツじゃねぇだろ。もっとトンでもないコト、しでかしてくれよ」
返事はない。ルイは諦めて、中断していたニーゼのスーツを焼こうとした。
ひゅるる、ロケット花火の様な甲高い音が聞こえたのはその時だった。ルイがそれに気付いた時には、倉庫の窓を突き破り、何かが飛び込んできた。ルイの増強された反射神経は、それを視界で捉えていたが、身体を動かすことは敵わなかった。
出来損ないの飛行機の様な物体。見方によってはロケットか、あるいはミサイルの様にも見えるソレをルイが確認した直後、爆発。閃光、熱波、衝撃。
二日前、深夜に近い時間にエミリアは管理部の七三分けの男を捕まえた。そして現状を洗いざらい吐いた。スノウドロップの現状、その正体、そして誰がそれを牛耳っているのかも。
「なるほど、ここまで事態が進んでしまっているとなると……コマンドメンツが出る案件ですね。第六席には連絡を?」
「いいや、僕からはまだ。盗聴される可能性が高いだろうからね。連絡員を用意して、少なくともロンドンから出たところで衛星電話経由で連絡させるのが良いと思う。今のルイは、確かにロンドン中のシステムを操れるかもしれないけど、まだ世界中じゃない。たぶん、スノウドロップの患者数に比例してハッキング出来る範囲が変わるんだろうと推測してる」
エミリアが話しながら見せた紙のデータを確認しながら、七三分けの男は頷いた。
「いいでしょう。早速部下を用意します。……2600番、貴方はこれからどうするのですか」
言外にこの件から降りろという目線。友人と殺し合う事になる可能性を慮っているわけではない、不確定な要素が増えるのを嫌って、この事件から排除しようとしている。
「そこで相談なんだ。現状でもルイに勝てる方法が一個だけある。コマンドメンツの到着を待つよりも速い。ベットするのは、僕とニーゼの命。どう?やってみる価値はあるんじゃない?」
「ほう、聞くだけは聞いてみましょう」
七三分けが頷くのを見て、エミリアは説明を開始する。話を聞く鉄面皮の眉がわずかに歪んだ。
ニーゼはバンを走らせながら、二日前の作戦会議を思い出す。自分の役割は囮の一つだ。カデシュ・ロンドンから出発した後は真っすぐにバーモンジーを目指す。隣にはまだエミリアが居るが、道中でエミリアはカメラの死角で下車して本命の仕込みに行く予定だ。ニーゼはバンでバーモンジーを走り回って、ルイ配下のフランス構成員の目を引く。と同時に、サイバー・スーツを抑えに来るであろうルイのハッキングに対するヘイトも稼ぐ。これがニーゼに課せられた仕事だった。
エミリアを降ろすポイントが近づく。周辺を警戒しながら、エミリアの方をちらりと見る。何かを考えているような表情で、グロックのスライドを引いて離して、初弾を装填する。ニーゼの視線に気付くと、エミリアはニーゼを見て笑った。降車ポイントでニーゼは車を止める。
「じゃ、行ってくるよ」
グロックをホルスターに戻して、エミリアは車を降りる。ニーゼはエミリアの隣に居られない不安を振り切るように、アクセルを踏んだ。
エミリアを降ろしてすぐ、敵の追っ手がやってきた。バイクに乗った黒服の男達はニーゼのバンを追いながら、拳銃を抜くとニーゼのバンに射撃を開始、サプレッサーによって少しくぐもった銃声が何発も鳴り響く。と同時に、ニーゼのHUD上にクラッキング警告。ルイがスノウドロップで仕掛けてきた。バンは防弾であり、拳銃弾程度では貫通は難しいが、何発も食らい続ければその限りではない。対クラッキングにスーツのリソースを配分し、さらにルイにスーツを侵食され続ける中で、ニーゼはバンを走らせ続ける。エミリア謹製のデータ爆弾が解除され、エメスの中枢コンピュータを参考にした防壁も綻びを見せる。拳銃弾を食らい続けたバンのガラスが、度重なる衝撃に耐えきれず砕け散る。それでもニーゼは、弱気な顔を見せなかった。
エミリアに頼まれた。だったら、私はそれをやり遂げるだけだ。
夜の空気を爆音が揺るがした。追っ手の幾人かはそれで動揺したのか、攻撃の手が止まる。同時に、ニーゼのサイバー・スーツへのクラッキングが止まった。エミリアは賭けに勝った。ニーゼは確信しながら、クラッキングに対抗するために振り分けていたリソースを、すべて戦闘サポートに振り分ける。反撃の時間だ。
ここぞとばかりに、懐からグロックを抜いた。
夜のロンドンをカメラを避けながら走るエミリアの脳裏に、先日の風景が浮かぶ。
「まず、僕とニーゼがホテルから飛び出す。ニーゼには囮になってもらう。これが第一段階。僕は途中で下車して、本命の用意に行く。次に、バーモンジー各所に配置した大量のドローンを飛ばして、ルイの気を引く、これが第二段階だ」
カデシュ・ロンドン管理部の応接室でエミリアは七三分けの男に説明する。
「この段階で幾つか質問があります。まず、敵の首謀者が潜伏している場所が分からない段階で仕掛けるのは早計ではありませんか? そしてもう一つ、貴方のいう通り、ホテルが監視されているのならば、ドローンを配置することそれ自体が困難ではありませんか?」
「うん、想定通りの質問ありがとう。一つ目の質問だけど、目星はついてる」
エミリアはGoogleマップを引き延ばした写真を男に見せる。
「バーモンジーのココ、この倉庫。これ、僕らの昔のアジトだったんだ。再開発に巻き込まれず、まだ奇跡的に残っていたみたい」
さらにもう一枚、エミリアは資料を見せる。以前管理部から提出された、電力消費のデータだ。
「バーモンジーの消費電力が増えてるって話だったろ?で、さらに細かくデータを見ていくと……この倉庫がある地区一帯の電力が増えてる。おそらく、ルイが生活しながらサーバでも動かしているんだろうね。スノウドロップのデータ収集用か、あるいは別の用途があるのかは知らないけれど」
「なるほど。一応筋は通りますね」
「そして二つ目、これはロンドンの力も必要なんだけど……地下通路を借りたい、あるだろ?」
七三分けの男はエミリアをじっと見つめた。その視線にもエミリアは臆さない。七三分けの男の表情からは感情が読み取れないが、少なくとも愉快に思っているようには見えなかった。エミリアは言葉を続ける。
「ロンドンは世界でも有数の地下都市だ。東京、上海、モスクワ、ソウル、そしてニューヨークに肩を並べる、ね。このホテルの地下にも、きっと地下鉄の廃駅あたりに繋がる秘密の隠し通路くらいあるんじゃないかな、ってさ」
「そんなものはない、と言ったら」
「困るね、随分と。ヤスナカさんが来るまでホテルに籠って持久戦かな。その間にロンドンの被害は広がっていくだろうけど」
七三分けの男の男は平凡な顔に眉根を寄せると、一つ息を吐いた。
「いいでしょう、ドローンは水無月から貸与されているものがあります。それをお使いください。配置に関しては任せます」
まず、一つ目の賭けには勝った。これから二つ目の賭けに勝つ。勝ってルイを殺す。
目的の場所までたどり着いた。ロンドンの地下通路から運び込んだコンテナを開く。中には流線形の容器のようなものと複数のパーツが入っている。エミリアはそれを黙々と組み立てる。格納されていたパーツを装着し終えると、それはミサイルの様に見えた。後ろからはケーブルが垂れ、百数十メートル分あるケーブルの終端にはラジコンのコントローラーのような制御装置が接続されている。本体を発射台に据え付けて、準備は完了。
これが賭けの二つ目、エミリアが制作した自作の有線ミサイル。ラジコン航空機の無線受信部を改造し有線化し、その胴体には燃料と共に爆薬がありったけ詰め込まれている。ルイのクラッキングを無効化しながら殺しに行くにはこれしかない。
ただし、制御部分までは完全とは言えない。急ごしらえのミサイルもどきは、マトモに飛ぶかどうかすら怪しい。エミリアは物理学や機械工学に明るいとは言えないからだ。
だが、それを解決する手段を一つだけ持ち合わせている。制御装置を握りしめながら、奥歯の容器に仕舞い込まれたドラッグを吸引する。
そしてエミリアは転じた。
空を飛ぶ。普段意識もしないような大気を粘り気のある流体として知覚しながら、エミリアの意識はミサイルそのものとなって噴進し続ける。
エミリアに隠された能力、電脳の予言者。奥歯に仕込まれたCRE-46と呼ばれる電子戦ドラッグを吸引したあとのわずかな時間だけ、彼は自身の脳を電子機器へと直結させ、制御することができる。
彼は自ら制作したミサイルへと直結し、そして自らその飛翔を制御することを選んだ。即席のミサイルを狙い通りに、かつルイのハッキングの影響を受けずに飛ばすにはこれしかなかった。
(即席だから覚悟はしてたけど、それでも酷いもんだな……!)
ミサイルの重心、航空力学的な問題、距離、速度それらすべての情報がエミリアの脳髄に襲い掛かる。それを即座にエミリアは処理して、ミサイルの動きに反映させる。一瞬でも気を抜けばミサイルはたちまち制御を失い、バーモンジーのどこかの路地に叩きつけられるだろう。処理の限界に達しそうなエミリアの脳が悲鳴を上げ、溶けだしそうな錯覚にすら陥る。いや、実際に溶けだしているのかもしれない。事実、この能力にはそれ相応に代償がある。が、今はそれを気にしてはいられなかった。
残り50m。路地が開けて、元倉庫がはっきりとミサイル戦闘部のカメラセンサに写しだされる。
残り10m。狙いは倉庫の窓。そこを突き破って、中に進入する。
残り1m。此処で接続を切るか、エミリアは逡巡する。制御している先の機器が破壊された時に、どのようなフィードバックがあるかは分からない。ここで切って、あとはミサイルの着弾に任せるべきか、一瞬だけ迷って、そのまま突き進む事を決めた。
窓ガラスを突き破る。エミリアの視界に広がる懐かしいアジト。あのころとはあまり変わっていない風景に、似合わないサーバルームが増設されている。
中にはルイの姿もあった。驚愕に目を見開いている。
ビンゴだ、エミリアは確信を持って、仮想の起爆スイッチを押し込んだ。
「ぐぇ、ぁ」
爆発したミサイルから蹴り出されて、エミリアは呻きながら現実世界に戻ってきた。心臓が脈打つ音が耳元で鳴っているかのように大きく聞こえて、脳も沸騰しそうなほどに熱く感じる。加えて吐き気、眩暈、あらゆる不調がエミリアに襲い掛かる。
我慢しきれずに嘔吐すれば、吐しゃ物には赤い血が混じる。どこかの血管が破れたらしいが、気にしている暇はエミリアにはなかった。吐き終えて口元を乱暴に拭うと、グロックを引き抜いた。
まだだ、まだルイを殺せたと確信できたわけじゃない。最後までやれよ、エミリア。
自分を鼓舞しながら、ふらつく脚を引きずって倉庫に向けて歩き出した。
倉庫は酷い有様だった。元から古い建物だったが、内側からはじけ飛んで一帯には砕けた煉瓦が散乱している。一部には電子基板やサーバラックの残骸も混じっている。人の残骸は、ない。
逃げられたか、それとも、中にまだ居るのか。エミリアは確認するために、崩壊した倉庫へ足を踏み入れる。めちゃくちゃに破壊した中を、一歩一歩踏み進めていく。
「エミール」
声を掛けられて、そちらに咄嗟に振り向いてグロックを向ける。銃口の先にはルイの姿。ルイは倉庫の柱に叩きつけられ、その場から動けない。全身に爆傷の跡。特に左腕はだらりと垂らされ、もう機能していないように見えた。
「ルイ、僕の勝ちだ。もうやめよう」
エミリアは銃口をルイに突きつける。ルイはその銃口を見つめて笑う。エミリアの銃は、当たらないことを知っているからだ。
「似合わないコトするようになったな、エミール」
「降参してくれ。ルイ。そしたら僕は、君を助けられる。フランスなんて抜けて、一緒にNYに行こう。フランスからだって構わない、現にピーコックさんだっているんだから」
震えているのは銃口だけではない。エミリアは一息にそう言い切った。ルイは首を横に振った。
「それはダメなんだよ、エミール。フランスでインプラントをインストールされた時に、一緒に爆弾も埋め込まれててさ。俺はフランスを裏切れない、それに」
ルイは傷だらけの身体で、柱に手を付きながらなんとか立ち上がる。エミリアは引き金を引けない。
「俺は、お前と戦いたかった。そして、勝ちたかった」
「……恨んでるのか、トムとクラークを殺したようなモンな、僕を」
初めてルイから来た本心に思考が凍るような気がして、エミリアはようやく言葉を捻り出した。ルイはかぶりを振る。
「恨んでない……って言えば嘘だ。でもな、それが一番じゃない……ずっと憧れてたんだ。俺達にない才能を持ってて、群れるしかなかった俺と違って、1人でもこの暗闇を泳いで行けるお前に」
でもこれじゃ、俺の完敗だな。ルイは苦笑しながら、両手を上げようとして、動く右腕だけをあげた。あとはエミリアが引き金を引けばすべてのカタが付く、ハズだった。
「わかった、じゃあ、勝負をしよう」
エミリアが銃を降ろした。
破壊された倉庫の中で、ルイとエミリアが背中を合わせて立つ。二人の手にはそれぞれグロックとM&Pが握られている。
勝負をしよう、と言い出したエミリアが提案したルールは、昔やった早撃ちだ。カウントダウンに合わせて、一と言った瞬間に振り向いて撃つ。ただし、今手の中にあるのは、あのころのオモチャの銃ではなく、実銃。
「よくやったよなぁコレ。結局役に立ったのかはわかんねぇけど」
「ああ、僕は論外だったけど、トムとクラークはいい勝負で、ルイが一個頭抜けて速かったし、正確だったよな」
「まぁな。……ホントにこれでいいのかよ、エミール」
「いいんだよ、僕が決めた。決闘の作法とは違うけど、まぁそれは許してくれ」
「ふざけんな、俺の方が格上だから、ルールを決めさせてやったんだよ」
背を向けあったまま、二人はくつくつと笑った。
どちらからともなく、カウントダウンは始まった。
「三」
一歩踏み出して、エミリアは昔の事を思い出した。ロンドンでの悪ガキ時代。クズのジョックにやり返し、それでルイに見初められたこと、訓練とか言って、バカ遊びしたこと、仕事が終わったら吐くまで酒を飲んだこと。
「二」
もう一歩踏み出して、エミリアはここ数日のことを思い出した。ルイとの再会も、ニーゼと歩いたロンドンの街並みも、ルイの衝撃の告白も、すべてのことが一瞬で思い出された。
次の一歩で、勝負が決まる。
「一」
エミリアが振り返る。ルイはそれより早く振り返り、エミリアにM&Pを構えていた。ルイは笑っていた。
発砲音が二つ重なる。
追っ手を蹴散らして倉庫を目前にしたニーゼの耳に、重なった銃声が二つ聞こえた。一気にニーゼの顔が青ざめる。ニーゼもエミリアの銃の腕前は知っている。銃撃戦になれば、万が一にもエミリアに勝ち目はない。脇目も振らず、倉庫の中に突入する。
二人の人影。一人は床に倒れ伏し、もう一人はその人影のそばで屈みこんでいる。屈んでいるのは、金髪だった。ニーゼは急いで二人に駆け寄る。
「ニーゼ」
エミリアがニーゼに気付いた。返り血を浴びて、ところどころが赤く染まっている。腿には銃創がより赤黒い染みを作っている。屈みこんだ先には、胸を真っ赤に染めたルイの姿。その顔は、笑っていた。
「ニーゼ、手伝ってくれ。血が止まらないんだ。今ならまだ、助かるかも――」
エミリアに止血されるルイの首筋にニーゼが指を当てて、首を横に振った。
「……そっか。当たって欲しくない時に限って、当たるもんなんだよな、そっか」
ニーゼの反応で、エミリアはようやく現実を悟った。そして、呟くように言った。
「やっぱり僕は、射撃が下手だな」
一連の事件は、マフィアの抗争、そしてマフィアが焚きつけたテロリストによるものと処理された。一部に真実を混ぜ込んだカバーストーリーを読み上げるニュースアナウンサーが映るカーナビゲーションを、ニーゼはつまらなさそうな目で眺めていた。
あの後、ルイはカデシュ・ロンドンに回収された。死体はスノウドロップ事件の首謀者として、管理部やその他関連部署が総出で解析、スノウドロップの浄化する「血清」を作成し、ドラッグとして流通させて裏社会に残ったスノウドロップを掃討しようとしている。
ロンドンの麻痺しかけていた都市機能は、HOLMESの復帰と共に回復しつつある。警察機能が完全に回復したおかげで、スコットランドヤードも捜査に乗り出した。ある程度核心に近い人物と、そうでもない末端を逮捕して、それでひとまずの終息を見せるだろう。
アンディー少年を含め、スノウドロップで昏睡していた人々は全員目を覚ました。しばらくの間寝たきりになっていたので復帰の為にはしばらくのリハビリが必要であろうが、特に後遺症も無いだろうとの事だった。両親とテリー少年には感謝の連絡が来ており、ニーゼはエミリアに代わり、その対応も行っていた。
そしてエミリア。太腿に銃弾を受けていたものの、奇跡的に骨や動脈は避けていたために二週間ほどの入院で退院し、NYに帰れる見込みだ。
奇跡的に外れた。だが、これは奇跡じゃない。ルイが狙ってやったのだ。とエミリアはニーゼと病室に二人きりの病室で語った。エミリアは、あの時倉庫で起きた事をすべてニーゼに話していた。
「たぶん、ルイはわざと外したんだよ……それで、引き分けにするつもりだったんだろうな。でも、僕の弾は、なんの因果か、ルイを殺した」
それきりエミリアは黙り込んだ。何かを思いつめた様な顔で、ニーゼはそれに掛ける言葉が見つからず、病室を辞した。
そして今日、退院の日。ニーゼは病院のエントランスの前でミニを駐車し、エミリアを待つ。病院の自動ドアが空いて、松葉杖を付いた見慣れた金髪が顔を見せた。ニーゼは車を降りて、助手席のドアを空ける。
「ありがと、ニーゼ」
エミリアはにこやかに答えた。この事件が始る前と同じような笑顔で。
テムズ川に沿って西進するようにミニを走らせる。目的地はヒースロー空港だ。行きのLCCと違って、帰りはファーストクラスが用意されていた。受傷したエミリアに対する第六席の計らいである。
エミリアは窓を空けて外を見て、後ろに流れる街並みを眺めている。ニーゼは黙々と運転し続けていた。
「どうだった、ロンドンは」
窓の外を向いたまま、エミリアはニーゼに問いかけた。返事を待たずに言葉を続ける。
「飯はマズいし、人は多い。そのうえたいていの人間が偏屈で面倒くさい。自分の気持ちを素直に話せない。オマケとばかりに日差しは少なくて、何時もどんよりな陰気な天気だ」
そしてなにより――続けようとして、何かを啜り上げる音がニーゼの耳に聞こえる。エミリアは窓を向いたまま、なんとか言葉を絞り出した。
「しみったれた風が目に沁みて、涙が止まらなくなる。最悪の街だ」
ミラーに映るエミリアの顔を見ないように、ニーゼは前を向いて運転し続けた。